<後編> 仲俣暁生×藤谷治対談 イアン・マキューアン『贖罪』を読む | 集英社インターナショナル 公式サイト
2019年06月21日

<後編> 仲俣暁生×藤谷治対談 イアン・マキューアン『贖罪』を読む

季刊誌kotobaで連載中の仲俣暁生さんによる書評連載「21世紀に書かれた百年の名著を読む」。
時代の一面を見事に映し出した名著や大著を毎回一冊取り上げ、丁寧に読み解いていくこの連載と連動し、荻窪の書店Titleではトークイベントを開催しています。
第1回で取り上げた作品は、昨年12月に新潮文庫で復刊したイアン・マキューアンの『贖罪』。イベントでは、小説家の藤谷治さんをお招きし、奇しくも21世紀の最初の年に刊行されたこの名著について語っていただきました。後編では、時代を超えて読み継がれる古典作品が備えている「物語の力」と、その定義について、議論を深めていきます。

 

古典における継承と断絶

 

仲俣 マキューアンが『贖罪』の次に2005年に発表した『土曜日』という小説は、2001年にアメリカで起きた9・11の同時多発テロを受けて書かれています。あの事件をどう考えるか、その背景にあるグローバリゼーションをはじめ20世紀から21世紀にかけての大きな社会変化をどう考えるか。そういう問題に現代の小説家は向かい合わざるを得ません。

 マキューアンはその一つ前の『贖罪』で、まず「20世紀」という時代全体を捉えた。そういう作品を世紀の変わり目に出したわけです。連載の最初はこの作品がいいのではないかと考えたのは、そんな理由もありました。

藤谷 そう。出たのが2001年。

仲俣 ところで、日本では『贖罪』のような厚みをもった小説がなかなか書かれません。マキューアンは1940年代後半生まれの「ベビーブーマー世代」、日本でいう「団塊の世代」です。親の世代には戦争経験があり、第一次世界大戦に参加した親族もいる。マキューアンと同世代のグレアム・スウィフトというイギリス人作家の作品にも、第一次世界大戦が与えた傷痕がはっきり出てきます。

 日本の現代小説と、イギリスをはじめヨーロッパの現代小説の大きな違いは、第一次世界大戦という体験の有無かもしれないなと思うんです。一度ならず二度までも世界大戦が起こり、多くの若い人が死んだ。そのことでヨーロッパは独特な傷を負った。そうした歴史的背景もふくめ、イギリスの小説が背負っている蓄積はとんでもなく大きいですよね。

藤谷 そうなんですよ。本当、日本の文学というのは、明治維新でもう、何ていうの……。もう本当にはっきり言って、一旦捨てたよね、坪内逍遥は。

仲俣 第一次世界大戦どころか、明治維新以前のことはすっかり捨ててしまった。でもマキューアンの『贖罪』で面白いのは、逆にそういう歴史の名残ともいうべきディテールなんですね。たとえばタリス家には立派なお屋敷があるけれど、貴族というわけではなく一種の成金なので、たぶん誰かの屋敷を買い取っている。その庭にはもう使われていない礼拝堂や17世紀の様式を模した泉があって、そういう近代以前の歴史の蓄積がこの庭に象徴されている。でもこれを日本でやるのは難しい。古いお寺や神社を舞台にするならともかく、どうしても明治維新以後だけの話になってしまうので。

藤谷 あと、何つってもやっぱり言葉が地続きなんだよね、英語は。シェイクスピアの英語はずいぶん違うらしいけど、19世紀ぐらいだったらもう「古臭いな」ぐらいで済んでるわけ。19世紀の日本のものって表記が違うし、言文一致の問題もあるでしょう。やはり遠いですよ。とても遠い。対してイギリス人たちは古典であってもペーパーバックでペロッと注釈なしで読めるはずですから、古典の距離が日本に比べると近いわけです。

仲俣 なるほど、そうですね。

藤谷 19世紀の本に書かれているその英文も、コモンセンスとして「いま」と地続きだからすぐに流通できるわけ。

仲俣 読者にもそのことに対する了解がある、と。

藤谷 そう。そういうのはものすごくうらやましい。僕、このあいだまで『南総里見八犬伝』を読んでいて、魂を揺すぶられたけども、でも、これをそのまんま僕の小説に出すってことはできないわけです。現代語に訳して、いろんなふるいにかけなければ今の読者には届けられない。そして現代語に置き換えてしまった『里見八犬伝』は、もう原文とは似て非なるものなんです。

仲俣 現代小説のなかで『八犬伝』の要素を活かそうと思ったら、相当の工夫をしなければならないですからね。物語を多層構造にするとか。

藤谷 何というか、ジャイアント・リープがあるわけです。

仲俣 過去と現在が切れている感じでいうと、そこが「アメリカ小説」と「イギリス小説」の違いでもありますよね。アメリカの現代小説も、ヨーロッパという「過去」と切れている。ヨーロッパ文学へのコンプレックスから切れて「自立」した節目は、ジャック・ケルアックの『路上』などが書かれたビートニク文学以降じゃないでしょうか。ちょっと乱暴かもしれませんが。

藤谷 でも、そんな感じですね。

仲俣 だからやっぱり、日本と同じで過去から切れている。その一方でイギリスは、大英帝国の栄光はもう見る影もないけれど、小説の世界では、シェイクスピアの時代から脈々と受け継がれてきた文学的伝統が、ミステリーの作家や読者にさえまだ前提とされている。ホロヴィッツの『カササギ殺人事件』を読んだイギリス人は、当然ながら『贖罪』のこともイメージしながら読む。ジャンルを超えてそういう厚みを備えている世界は、とてもうらやましいですね。

 

 

藤谷作品におけるマキューアンの影響

 

仲俣 そういえば、藤谷さんの『燃えよ、あんず』という小説に、ちょっと『贖罪』を思わせる仕掛けがありますよね。まだ読んでいない方にはネタバレになりますが(笑)。

藤谷 ええ。先ほどもお話ししたように、2003年に『贖罪』が刊行されて同年に僕がデビューしたので、この作品の影響はかなり受けています。

 21世紀の最初に発表された小説として非常に象徴的な意味を持っているこの『贖罪』という小説にはもうひとつ重要なテーマがあります。それは、この小説が「書くことについて書かれた作品である」ということです。

仲俣 ああ、まさにそのとおりですね。

藤谷 「書くことについて書く」というと、学問的というかメタフィクションというか、実験的な要素が必ず出てきてしまうものです。そのはずなのに、『贖罪』は完全に“オースティン”なのよ。本当にオースティンなの。「書くことの不可能性」とか「真実の探求と記述」みたいな、大学の紀要に出てくるようなテーマをド直球で問いかけているのに、それでいて物語自体は「彼女はお姉さんと和解できるんだろうか」とか、もう俗も俗、すごい通俗的な興味で読者を引きつける。

仲俣 ストーリーそのものは、かなり通俗的な家族ドラマであり、メロドラマですからね。

藤谷 そう。そして、僕は2003年にこれを読んだときに、ロラン・バルトとかミシェル・フーコー、ポストモダニズムが問うているようなものを、この通俗的でメロドラマチックで最高に面白い小説の中に溶かすことがイギリスの小説にはできるのに、なぜ日本の小説ではできないのかなと、ずっと思っているんです。だから僕は、ポピュラリティを犠牲にして、その代わり、純文学だ、エンタメだっていうような境界の埒外で、なんとか生きる道を見つけようとして今も書いているわけです。

仲俣 藤谷さんは、まさに日本で「マキューアンのように」書こうとしているわけですね。おっしゃるとおり、『贖罪』は一種のメタフィクション、つまり「書くことについての小説」、「小説についての小説」です。「のちにブライオニーは…」などと、メタ視点であることは最初から明かされていて、書き方そのものはフェアですが、物語の面白さに引きずられて読み飛ばすと、メタフィクション的なサインを見落としてしまう。そして最後まで読んだ人は必ず、もう一度読み直したくなる。そもそも「贖罪」とはなんなのか、と。

藤谷 そうですね。

仲俣 きょう藤谷治さんと『贖罪』の話をしたかったいちばんの理由はそこなんです。はたしてブライオニーは「贖罪」できたのか。これはたんに彼女が過去にした行為に対する「罪滅ぼし」の物語ではない。むしろ「小説の勝利」という話であり、「フィクションがもつ力」を強く打ち出した作品なんですよね。

藤谷 そう。だから、さっきの話の続きでもあるんですけど、メタフィクションであるっていうことってね、例えば筒井康隆の小説だとかそういうようなものだとやっぱり、小説的な仕掛けの驚きみたいなものに終始するような傾向あるわけですよ。

 だけども、この小説『贖罪』は、メタフィクションであるということが、読後、一筋の涙になって読者の胸に迫るわけ。メタフィクションというのは要するに「これは書かれたものですよ、と書くこと」なの。普通、小説って、「これは小説なんだけど」なんて書いてないじゃない。でも、現にそれは小説なわけでしょう。『贖罪』はこのメタフィクション要素と、タイトルの罪滅ぼし、罪を滅ぼすというような要素が実はものすごく関係があるんだということで成り立っているわけじゃない。その……ああ、どんどん仕掛けのネタバレになってしまうけどね。

仲俣 ええ(笑)。

藤谷 ここではすごいぼやかして話すけど、例えば僕がこの場を小説にするとするでしょ。そうするとね、一番前の列にね、ものすごい絶世の美女がいたと書く。そして、終わったあとも「藤谷先生の大ファンなんです」と言ってついてきたと。打ち上げもついてきた。みんなが酔いつぶれても、ずっとついてきましたとさ……って書くことができるじゃない。実際には絶対そんなこと起こらないよね。でも、実際に何が起こったかっていうことと、何が起こりましたって書くこととのあいだには差があるわけだ。

 ということは、もう常に俺の勝ちなわけだよ。ね? 例えば端っこの席の、その人を勝手に死なせることはできるわけだ、こっちは。

仲俣 言葉による表現の中で、ですね。

藤谷 そう。で、そんなさ、そんな人間に、罪滅ぼしって何なの?  自分がかつて悪いことしちゃった。お尻触っちゃった。触ってないことにすることもできるし、触った女の人に許されたことにもできるし、こっちが触られたことにすることだってできるわけ。虚構を生む立場にある物書きにとって、罪滅ぼしっていうような主題は、実は一番きついんです。

仲俣 本当にそうでしょうね。

藤谷 うん。全部ご都合主義なんだから。

 

 

古典の定義とは

 

仲俣 この連載では「21世紀の古典」というか、これからも長く読み継がれる小説の条件みたいなことを考えていきたいんです。藤谷さんにとって『贖罪』という小説が「別格」だったという理由が、まさにその条件の一つになりうる気がしています。

藤谷 ひとつの小説の中で「実際の歴史」から「文学の遺産としての歴史」までをすべて引き受けて、その上で「どこに行くのか」を提示する。小説だからできる未来予知というのを、難しいながらもそれでもチラッとでも垣間見せる、そういったことを見事にやってのけたという意味で『贖罪』は奇跡的な作品なんです。19世紀、20世紀のきれいだったり汚かったりする光がずーっと一点に集まったような作品として、この作品は21世紀に書かれた古典として最初に取り上げるに最もふさわしいんじゃないですかね。

仲俣 「小説とは何か」、そして「小説家とはどういう人間なのか」。とても面白く読みやすい物語のなかに、その「問い」と「答え」が書かれているんですよね。

藤谷 先ほどの話題を引き継いで最後締めますが、『贖罪』は20世紀が抱えたような文学的な小説論的な仕掛けについての小説でもあるんだけどね。その物語の結果として、一人の小説家が「やるだけのことをやったんだな」っていう、すごい切なーい感動をもたらす終わり方をするんです。そしてその終わり方が、罪滅ぼしって何だ? という仕掛けの意義とぴったり一致するという、最高級のメロドラマのような実験小説となっています。ですから、もう本当にみなさんにおすすめいたします。

仲俣 ずいぶん前にジェイムズ・キャメロンが撮った『タイタニック』という映画があるでしょう。僕はあれがものすごく好きなんです。実はあの映画は、「20世紀」を象徴する一人の女性にフォーカスした物語でしたよね。

藤谷 ああ、そうですねえ。

仲俣 同じように『贖罪』も、20世紀という時代を一人の女性作家の人生に重ねている。最終章が1999年で終わるという時代設定も、きわめて意識的に書かれたはずです。日本はそろそろ改元の時期ですが、元号がもたらす時間的な尺度とは別に、僕らも「21世紀人」として「20世紀」という時代を振り返ってみてもいいかなと思います。

 連載の次回はウンベルト・エーコの『プラハの墓地』を取り上げる予定です。これは19世紀が舞台の物語なので、さらに時代を遡ることになります。

藤谷 最高級のビフテキの上に、最高級のトンテキをのせて、毒をかけて出したような小説ですね、あれは。

仲俣 まさにそのとおりです(笑)。次回もご期待ください!

 

構成:神西亜樹

 

※本稿は、荻窪の書店Titleで2019年3月29日に開催されたイベント「季刊誌kotobaプレゼンツ 21世紀に書かれた百年の名著を読む 第1回」の内容を再編集したものです。

森達也さんをゲストに迎えてお送りする第2回は、6月24日開催予定。詳細、お申し込みはこちらよりどうぞ。