<前編> 仲俣暁生×藤谷治対談 イアン・マキューアン『贖罪』を読む | 集英社インターナショナル 公式サイト
2019年06月20日

<前編> 仲俣暁生×藤谷治対談 イアン・マキューアン『贖罪』を読む

季刊誌kotobaで連載中の仲俣暁生さんによる書評連載「21世紀に書かれた百年の名著を読む」。
時代の一面を見事に映し出した名著や大著を毎回一冊取り上げ、丁寧に読み解いていくこの連載と連動し、荻窪の書店Titleではトークイベントを開催しています。
第1回で取り上げた作品は、昨年12月に新潮文庫で復刊したイアン・マキューアンの『贖罪』。イベントでは、小説家の藤谷治さんをお招きし、奇しくも21世紀の最初の年に刊行されたこの名著について語っていただきました。文芸評論家と現役小説家による文学談義をお楽しみください。

 

 

マキューアンとホロヴィッツの結節点

 

仲俣 季刊誌kotobaの3月発売号からこの連載をはじめたのですが、「21世紀に出版された、100年後にも読まれる作品を取り上げる」というコンセプトは、今回の再文庫化で『贖罪』を読んだことがきっかけで思いついたものなんです。

 著者のイアン・マキューアンは新作が出るたび日本でも翻訳書が刊行される人気作家で、『アムステルダム』という作品でブッカー賞も受賞している、いわばイギリス現代文学の第一人者ですよね。

藤谷 はい。

仲俣 ちょっと前振りもかねて、あまり誰も言ってないことを指摘させてください。去年の暮れに、仕事と関係のない本を自分の楽しみのためだけに読みたいと思い、『贖罪』とアンソニー・ホロヴィッツの『カササギ殺人事件』を買ったんですよ。で、『カササギ』のほうから先に読みはじめた。

 ご存知のとおりこれはアガサ・クリスティのパロディ風ということでたいへん評判になったミステリー小説で、様々なランキングでも1位に選ばれています。その冒頭で、主人公の女性編集者が「自分の人生を変えた本」をいくつか挙げるなかに『贖罪』が出てくる。

 また『カササギ殺人事件』は上下巻で出ていて、実はそこにもちょっとしたトリックがあるんですよね。それも含めて面白く読み終えて、そのあとすぐに『贖罪』を読んだら……。

藤谷 でしょう?(笑)

仲俣 そう(笑)。『カササギ殺人事件』は、あきらかに『贖罪』を踏まえて書かれた作品だと気づかされたんです。ネタバレになるので詳しくは言えませんが、お屋敷ものであること、「取り違え」が鍵となるなど、両作には共通点がいくつもある。

 僕はホロヴィッツが、そんなふうにマキューアンの『贖罪』を踏まえて『カササギ』を書いた事実に驚いたんです。例えるなら、「ああ、これは漱石の『三四郎』を踏まえてるな」とか、「村上春樹へのオマージュだな」とわかるような感覚でしょうか。イギリスでは『贖罪』はそのくらい広く知られた作品なんですね。

藤谷 まあ、ベストセラーなってるよね。

仲俣 イギリスではパロディにされるほどなのに、日本ではそこまでの広がりもないし、『カササギ』と『贖罪』の類似性も話題にならなかった。そこで時を越えて読みつがれるべきこういう作品を紹介していこうという、連載のコンセプトが固まったんです。

 藤谷さんがマキューアンの『贖罪』を最初に読んだのはいつごろですか?

藤谷 僕、出てすぐに買ったと思うんです。手元の本の奥付を見ると2003年の4月25日となっていますね。2003年といえば、僕が作家としてデビューした年。その年の10月だか11月に最初の本を出しましたから。

仲俣 『アンダンテ・モッツァレラ・チーズ』という小説ですね。僕は文庫版で解説を書かせていただきました。

藤谷 そうそう。この小説を書いたり直したりしてる真っ最中に『贖罪』と出会ったんですね。だから、やっぱり個人的な思い入れもすごく強い。この前に『アムステルダム』が出ていたのですが、これがすーごい面白かったので、その当時出てたマキューアンの本は大概読んだはずです。で、そうやって読んでいるうちに、今度は『贖罪』が出たわけ。そしたら、やっぱりもうちょっと、うーん、ほかの作品と明らかに格が違うなと。マキューアンの作品とも違うし、同時代のほかの国の作家の作品とも違うんです。やっぱりちょっとこれは段違いじゃないかなと思いましたね。

仲俣 『贖罪』前後の作品を集中して読んだんですが、この時期からのマキューアンはすごくいい。今日は『贖罪』がなぜ飛び抜けていい小説だと言えるのか、という話もしていきたいです。

 

『贖罪』に見る、イギリス文学の集合的記憶

 

藤谷 やっぱりなんで良いかといったら、イギリス小説というものの伝統の分厚さを、その物語の内に引き受けていることにひとつ目の大きな理由がある。引き受けるだけでも大変なのに、さらにそれを正しく自分の小説に実行できるっていうのは、並大抵の技量ではない。

 第1部の1日の話はね、ある種の「緊張感」と「多様性」と、そして物語の、これ一体どうなるのっていうような「話の進行」が全部同時に実現されているでしょう? それはやっぱりオースティン、ディケンズというような、堂々たるイギリス小説の伝統の上に自分の小説を乗っけていくという自負と、それを実現する能力がなければ成り立たないですね。

仲俣 そもそも凡百の作家は、そんな大それた小説を書こうと試みさえしないでしょうね。

藤谷 うん。

仲俣 『贖罪』は第1部〜第3部プラス終章という凝った構成になっています。第1部では、1935年のある夏の日の出来事が語られる。ロンドン南西のサリーという地域にあるタリス家の広いお屋敷に、長男のリーオンが久しぶりに帰ってきて、長女セシーリアと次女ブライオニーが迎える。またこの屋敷にはロビーという使用人がいて、じつはセシーリアとは恋仲なのですが、ブライオニーの勘違いがきっかけで、二人にとってとても不幸な事件が起きます。

 第2部ではロビーは第二次世界大戦のフランス戦線ににいる。第3部は視点がブライオニーに切り替わり、やはり戦時下のイギリスの生活が描かれる。そして第3部に続く終章は1999年が舞台で、作家となったブライオニーの視点でこの屋敷が再び描かれます。時間的には20世紀の3分の2をカバーする作品なんです。

 なんともいいのが冒頭の場面ですよね。兄が帰ってくるというので次女ブライオニーがお芝居の準備をしている。自分で脚本を書き、ポスターまで作って、ウキウキした気持ちで準備をしていくわけです。このときブライオニーは13歳。妄想過多な、物語に取りつかれてしまう女の子という設定です。そういう少女が、屋敷の庭で姉とロビーの間に起きた「ある出来事」を目撃してしまう。その出来事がブライオニーの視点と、姉のセシーリア、そしてロビーの各視点からそれぞれ描かれていきます。

藤谷 やっぱり1935年という時代設定が絶妙過ぎるよね。

仲俣 大陸ではすでにナチスが政権をとり、風雲急を告げている。

藤谷 ナチスが来るのか来ねえのか。とんでもない戦争を近い時代に経験して、もうあんなバカげた戦争なんて絶対ないよっていうような風土の中で、「いや、でもわからんぞ」みたいな時代が1935年でしょう? しかもイギリス。新しい価値観、女性像みたいなもの、道徳観、階級差の問題もあるし、作中でもそれは出てくる。

仲俣 姉のセシーリアは都会の大学で文学を学んだ、いわば「新しい女」。そんな彼女が、自分の館の使用人と恋仲になる。

藤谷 そうそう。

仲俣 セシーリアの家は上流というよりは中流、まさしくブルジョワだけど、身分を超えた恋をするわけです。

藤谷 そう。だけど、場所が田舎だし、やっぱり1935年。ある意味では現在でも続く、ヴィクトリア朝とまで言わないけども、保守的な価値観の世界でね。家で自分の家族が彼氏とこっそり何かしてるのを見つけて、モヤモヤする妹……という、ごく自然な情感がまずあって。それに加えて、身分違いの恋だとかさ、戦争が迫ってるだの、お金があるのかないのかだのとディケンズ風のテーマが盛り込まれているんだよね。そういう「1935年」的な要素がいくつも相まって、ひとつの事件になっていく。

仲俣 『カササギ殺人事件』と『贖罪』の対比は、単なるパロディにとどまらないかもしれません。1935年はいわゆる「戦間期」で、それこそアガサ・クリスティが大活躍した英米ミステリーの黄金時代でもあります。「屋敷もの」という要素も大きい。そもそもワーキングクラスの家ではミステリーになるような事件は起きないんですよね(笑)。

藤谷 狭いし。

仲俣 『贖罪』第1部の舞台は、まさに典型的な「お屋敷」とその敷地内です。

藤谷 見渡す限り敷地なんだよね。

仲俣 しかもこの敷地には礼拝堂の跡など、過去のいろんな時代の名残がある。そこに、いかにも「現代的」な、チョコレートバーで財を成した兄の友だちがロンドンからやってくる。「チョコレートバーで財を成す」とはどういうことか。当時チョコレートバーは軍需品で、兵隊が戦地に持って行くわけです。ナチスとの戦争が始まると、そのチョコレート製造業者は大金持ちになる。マキューアンは、こういった歴史背景の盛り込み方、ピースのはめ方がとても巧みなんですよね。

 他にも、時代性を踏まえた仕掛けが随所に見受けられます。たとえば、この作品の主人公の名前はブライオニーで、そのお母さんの妹の名前はハーマイオニーですよね。後者は『ハリー・ポッター』シリーズのヒロインと同じですが、多分、ちょっと古風な、19世紀風のネーミングだと僕は思うんです。

藤谷 対して、この小説の第2部では、もう戦争真っ最中。

仲俣 ダンケルクに向けての撤退戦ですね。

藤谷 そう、ダンケルクのシーン。ダンケルクって何年?

仲俣 1940年、第二次世界大戦が始まった翌年ですね。そのダンケルクに向けての敗走のなかで、使用人の息子ロビーはなんとかセシーリアとの再会のため、生き延びようとする。

藤谷 やっぱり使用人の息子、ロビーがさ、兵隊として怪我をしながら、もうヘトヘトになって歩いてるということと、第1部で起こった事件とはすごく関係があるわけ。

 つまりあの事件の前とあとで、もう全然違うんだ。ロビーのあり様という意味でも、もっとマクロな意味でも、もうまるで違うことが起こってしまう。画然と線が引かれているという意味のことが作中に書いてあるんだけど、まさにダンケルクから20世紀が始まったみたいなさ、そういう象徴性も持たせられるぐらい。

 逆にいうと第1部は19世紀のイギリス小説の要素を全部、吸えるだけ吸って作ってるという。

仲俣 そうなんですよね。この章ではブライオニーはまだ13歳。そして第1部をロビーの立場でみると、このときが彼の青春の絶頂なんですよね。これから自分の人生には輝かしい未来が開けていくと思えた、いちばん幸せなポイントに彼はいる。ところが一転して、第2部ではダンケルクに向かって敗走していくどん底。そのコントラストが素晴らしい。

藤谷 彼は医学生になりたいんだよね。

仲俣 医学部に通うお金をタリス家の主人が出してくれることになった。上の娘とも交際が始まり、大学を卒業したあとは医学を学び、医者になる未来がみえてきた。そしてドイツとの戦争は、1935 年の段階ではまだ避けられる可能性があったんです。

藤谷 そこもさ。

仲俣 いわばイギリスという国そのものが、歴史的な分岐点にあった時代ですね、1935年というのは。

藤谷 新時代の才能ある青年にお金を出すのはまったくやぶさかではないわけよ。でも、自分の娘を使用人の息子とくっつけさせるというようなことは考えもしてないんだよね。

仲俣 そのことが結局、第1部最後の悲劇につながるわけです。

藤谷 うん。もう何ていうんだ、すごいありそうな話。全部が、聞いたことあるイギリスの小説、どこかでそんなのあったなみたいな。

仲俣 「集合的記憶」とでもいうか、イギリスの近代小説をまったく読んでいなくても、だいたいこんな感じなんだな、とわかる要素が『贖罪』の第一部には全部入っている。

藤谷 やっぱり、並大抵の技量ではないです。

 

マキューアンが描こうとした愛と戦争

 

仲俣 この小説は一種の倒叙ミステリーともいうべき、非常に巧みな書かれ方をしている小説なんですが、テーマそのものはシンプルです。ひとことでいえば「愛」、あるいは「性愛」。まさにメロドラマの基本というか、小説を通して人間を描こうとする場合のど真ん中なテーマです。マキューアンはあらゆる手法を盛り込んで小説を書く人なので、どの作品でもその都度巧みさは感じるのですが、「ど真ん中」の度合いでいうと『贖罪』は飛び抜けていますよね。

藤谷 これ翻訳者のあとがきにもそれっぽいことが書いてあったんだけど、マキューアンが愛なんて言い出したっていうことが僕らとしてはもうショックなわけ。『最初の恋、最後の儀式』なんていうのは、シュルレアリスム風の残酷短篇集なんです。平然と人を殺したりとか、近親相姦だとか、そういうことを書いてる話。

仲俣 タブーを侵犯する作家、というイメージですね。

藤谷 『愛の続き』なんてのはもうなんか読んでて嫌になっちゃう。『アムステルダム』だってそうじゃない。人間関係がごねごねごねごねしてるさ。そういう小意地の悪いこと書いて、ニヤついてんじゃねえか、この作者は、っていうような。

仲俣 藤谷さんのなかでは、そういう作家だという印象があったわけですね。

藤谷 あった、俺はね。今でもマキューアンの性根というのはそこにあると思っているけど。

『贖罪』をマキューアンが書くことになるそもそものきっかけは、戦争博物館みたいなところで恋人同士の、兵隊と現地の恋人とのラブレターを読んだということと関係あるんですよね。

仲俣 ええ。モデルとなる人がいたようですね。

藤谷 うん。それで、つまりやっぱり、愛について語らざるを得なくなるわけじゃない、そうなってくると。でも、一方で戦争ってもんが情け容赦のないものだっていうようなことも、マキューアンって人は心が冷たいから、平気で書けちゃうわけね。

仲俣 マキューアンは心が冷たい、と(笑)。

藤谷 そう。もうこの人は冷たーいよ。

仲俣 なるほど、そうでなければあそこまで冷徹に書けないでしょうね。

藤谷 そう。で、そのうまーいブレンド具合が実現してるなと思います。

仲俣 なるほど。kotobaでの書評にも書いたんですが、マキューアンの小説では、いかにも文学好きという人間は主人公にならないんですよね。

藤谷 ああ、そうかもしれない。

仲俣 科学者だったり、あるいは実務家だったり、なんらかのプロフェッショナルではあるけれど、文系の人ではない中産階級の人間が、だいたい主人公になっている。ところが『贖罪』では、姉のセシーリアはケンブリッジで文学を学んでいて、クラリッサがどうしたとかいう文学的な会話がやまほど出てくる。これもけっこう大事な要素なんですが、イギリスの小説家に対する言及も多い。ことにジェーン・オースティンからヴァージニア・ウルフに至る女性小説家の流れの中に、この作品の主人公であるブライオニーが位置づけられるように書かれている。

 ところで藤谷さんの言い方では「心が冷たい」作家であるマキューアンが、この作品ではストレートなまでに「愛」を書けた理由として、イギリス人を含めた欧州の人間にとってきわめて大きな経験だった、二度にわたる世界大戦の存在がすごく大きい気がします。

藤谷 そう。だから、やっぱり僕は筆の力という点では第2部が。やっぱり、戦争のダンケルクのところでロビーがね、どんどん意識が混濁していくんですよ。そのへんの筆致はね、さっき言った最初の短篇集の、若い、シュールで残酷な短篇を書いていた頃のマキューアンの筆が出てきてね、しかも、それが生かされてるんだよね。

仲俣 とはいえ、「策に溺れる感じ」ではない。

藤谷 そうそう、策に溺れる感じじゃなくて、やっぱり本当にそこで、今までの自分のライティングテクニックをここで使う、ここで知識を使う、ここで引用を使うというようなことができるっていうことと、自分がそういう作家であるという自覚。そしてあの戦争は自分との関係があるという、すごい強い気持ち。マキューアンのお父さんは戦争でダンケルクにいたらしいね。だから、やっぱり他人事でない切羽詰まった感じっていうのが出てる。ほかの作品にはそんなないじゃない。

仲俣 たしかに「切羽詰まった感じ」というのは感じますね。

藤谷 だけど、これはすごくヒリヒリする。

 

<後編へ続きます>

構成:神西亜樹

※本稿は、荻窪の書店Titleで2019年3月29日に開催されたイベント「季刊誌kotobaプレゼンツ 21世紀に書かれた百年の名著を読む 第1回」の内容を再編集したものです。

森達也さんをゲストに迎えてお送りする第2回は、6月24日開催予定。詳細、お申し込みはこちらよりどうぞ。