各界の読み手がセレクト コロナブルーを乗り越える本

※掲載原稿は到着順です。

阿古智子(現代中国学者)
選者プロフィール
あこ ともこ 現代中国学者、東京大学大学院総合文化研究科教授。1971年、大阪府生まれ。
大阪外国語大学、名古屋大学大学院を経て、香港大学で教育学系Ph.D(博士)取得。
在中国日本大使館専門調査員、早稲田大学准教授などを経て、現職。専門は社会学、中国研究。
主な著書に『貧者を喰らう国―中国格差社会からの警告』など。
「香港 あなたはどこへ向かうのか」をWEBで連載。https://jig-jig.com/serialization/ako_hongkong/ako-hongkong-1/

『衛生と近代―ペスト流行にみる東アジアの統治・医療・社会』

永島剛・市川智生・飯島渉編 /法政大学出版局

『衛生と近代―ペスト流行にみる東アジアの統治・医療・社会』

永島剛・市川智生・飯島渉編 /法政大学出版局

「鼠疫」、つまりペスト(腺ペスト)が北里柴三郎によって歴史上初めて医学的に確認されたのは、1894年、香港においてであった。不介入主義を貫く英国統治下の香港では、ヨーロッパ系住民と中国系住民の居住区は分離していたが、中国系住民が増加する中、中国人コミュニティでもイギリス流の衛生行政が行われるようになった。

その16年後の1910年、上海の共同租界でもペスト騒動が起こった。中国人は強制隔離や戸別検査など、専門化された近代医療の空間や手法に馴染めず、西洋人の男性医師や検査官を恐れる中国人女性たちは子どもを連れて逃げまどった。「顔色の黄色い人は衛生員に見つかると強制的に隔離される」「隔離病院では隔離された人の体を原料に薬を作っている」といったデマが広がる中、中国人たちが、検査に訪れた衛生員や医師を取り囲み、検査を妨害するという事件が相次いで発生した。

「ペスト検査を上流の中国人は理解しているが、下流の中国人は理解できずに恐れている」「愚民がデマに振り回されて騒動を起こしている」「中下等の人たちが恐れて騒ぎ、暴動を起こした」といった当時の上海の新聞記事からは、「上流―下流」「西洋人―中国人」といった対立軸を固定した見方が広がっていたことがわかる。このような中で、偏見や差別が助長され、感染症への恐怖から、極度に「自己」を防衛する欲求が高まり、「他者」に対しては憎悪さえ生んでいたのだった。

デマや差別の根源を探ると、医学や生活習慣の差異が生じさせた誤解、社会に元々根付いていた分断の構図が見えてくる。ペストの時代から100年以上経ち、ほとんどの地域で植民地統治が終わった現在も、そうした状況はあまり変わっていないのではないか。

私たちはコロナ禍に怯え、苦しむなかで、国内外で科学や医学に関して、統治や管理の方法をめぐって論争している。「西洋」中心の帝国主義下で「下流」とされていた「中国」は、今やビッグデータを操る超大国になった。ウィルス発生源の特定をめぐる攻防、WHOを取り巻く政治的駆け引き、ワクチン開発に関する利害の衝突……。互いに疑いの目を向け合い、激しく対立している。グローバル化が進む世界が一丸となってパンデミックに対抗するには、国家主義を乗り越え、重要な情報や専門知識を積極的に共有しなければならないというのに、どの国も国益を重視する姿勢に傾きがちだ。さらに、感染症をめぐって生じている多くの問題は、「西洋VS非西洋」とか、「中国びいきVSアンチ中国」といった二項対立の文脈からでは解けないものなのに、そこに焦点が集まりがちなのは何故なのか。

ペストと闘う帝国主義下の中国の開港都市、外国人居住地が撤廃されたばかりの神戸、日本の植民地になったばかりの台湾、朝鮮、オランダ統治下のジャワなど、激動の東アジアを記した本書は、歴史研究として重厚さを有しているだけでなく、現在私たちが抱える問いに対しても多くのヒントを投げかけてくれる。

想田和弘(映画作家)
選者プロフィール
そうだ かずひろ 1970年、栃木県生まれ。映画作家。
東京大学文学部宗教学・宗教史学科卒業。スクール・オブ・ビジュアルアーツ映画学科卒業。93年からニューヨーク在住。
映画作品に『選挙』『精神』『Peace』『牡蠣工場』など。最新作は『精神0』。著書に『演劇vs映画』『カメラを持て、町へ出よう』など。

『ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門 豊かな人生の技法』

ウィリアム・ハート、日本ヴィパッサナー協会監修、太田陽太郎訳/春秋社

『ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門 豊かな人生の技法』

ウィリアム・ハート、日本ヴィパッサナー協会監修、太田陽太郎訳/春秋社

去年の夏、千葉でヴィパッサナー瞑想を訓練する10日間の合宿に参加した。ヴィパッサナー瞑想とは、2500年前にブッダが実践した瞑想法である。しばしば「観察瞑想」とも訳される。
胡座をかいて目をつぶり、身体を頭のてっぺんからつま先までくまなく意識・スキャンしていき、そこで感じる感覚をつぶさに観察していく。感覚には不快なものも心地よいものもあるが、いずれにも「嫌悪」や「渇望」で反応せずに、平静に観察するのが重要だ。平静に観察していると、どんなに強い感覚でも遅かれ早かれ消えていく。その様子を静かに見届ける。
合宿以来、毎日最低1時間、この瞑想法を実践してきた。
コロナ禍が始まり、その絶大なる効果を毎日実感している。
なにせやりたいことは思うようにできず(映画を観に行ったり、友達と飲んだり)、やりたくないこともやらざるをえなくなり(マスクをしたり、消毒したり、他人と距離を保ったり)、しかもそれがいつまで続くのかも見通せない。日々感じるストレスの量は半端ない。知らず知らずのうちに「嫌悪」や「渇望」が生じ、心を蝕み、不安定にさせていく。
そうした心の状態を静かに見つめ、整える時間を持つことは、心身の健康を保つ上でこの上なく重要なのだと再認識する日々である。そこで紹介したいのが、ウィリアム・ハート著『ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門: 豊かな人生の技法』。S.N.ゴエンカ氏の解説に沿ったヴィパッサナー瞑想入門書だ。
ただし、瞑想法を正しくマスターするには合宿に参加する以外に方法がない。しかもその合宿はコロナ禍のため休止中なので、合宿に参加されたことがない方々にとって、本書を読むことがどれだけ助けになるのかはわからない。しかし、この機会に本書を通じて瞑想の哲学や方法論に親しんでおくことには、何らかの意義もあるのではないだろうか。

『君とまた、あの場所へ シリア難民の明日』

安田菜津紀/新潮社

『君とまた、あの場所へ シリア難民の明日』

安田菜津紀/新潮社

もう一冊ご紹介したいのは、安田菜津紀著『君とまた、あの場所へ シリア難民の明日』である。
フォトジャーナリストである著者が、シリアから逃れた「難民」の置かれた状況についてルポしている本なのだが、コロナ禍の最中に再読して、ちょっと驚いた。働きたくても働けず、学びたくても学べず、愛する人を失ってしまうかもしれないという不安に苛まれながら生活している難民の皆さんの状況が、コロナ禍で苦しむ僕らの状況と、どこか重なるのである。
レストランや学校や映画館や美術館が閉まり、大勢の人々が仕事を失い、医療が崩壊しつつあるコロナ禍を「かつて経験したことのない、前代未聞の事態」であると、欧米や日本のマスメディアは評するし、僕もそう思っていた。
けれどもシリアでは、この何十倍も苛烈な状況が、すでに10年近く続いているのである。いや、シリアでなくても、不幸にして戦場になっている場所では、同じようなことが現在進行形で起きているはずなのだ。
以前本書を読んだときには「大変だなあ、ひどいなあ」とは思っても、どこか他人事のように感じ、「当事者」として自分自身に引きつけて読めていなかったのだと思う。今は彼らの苦しみが、なんだか自分のことのように感じられる。
本書を読むなどして、大変な状況に置かれている人たちに思いを馳せる、そして共感できる能力を鍛えていく。この残忍なコロナ禍をそういう機会にできるのなら、多少なりとも積極的な意味があるとも言えるだろう。同時に、コロナごときでへこたれるわけにはいかないと、闘志も湧いてきたりするのだから不思議だ。

 

小田井涼平(「純烈」メンバー)
選者プロフィール
おだいりょうへい 歌謡コーラスグループ「純烈」メンバー、俳優。
1971年、大阪府生まれ。『仮面ライダー龍騎』(2002年)にて仮面ライダーゾルダ・北岡秀一役で俳優デビュー。
ドラマ『新・美味しんぼ』(07年)にて出版社社長・団一男役などを演じる。
アニメ『機動戦士ガンダムSEED』(02年)では、オルガ・サブナック役で声優に挑戦。
タレントのLiLiCoさんとのおしどり夫婦ぶりでも話題。

『ヒーローたちの戦いは報われたか』

鈴木美潮/集英社文庫

『ヒーローたちの戦いは報われたか』

鈴木美潮/集英社文庫

予期せぬ形で世界中がコロナ危機に陥ってしまった。まさに大ピンチだ! こんな時こそヒーローの出番である。とはいえ、空を飛んで、もしくはバイクにまたがり颯爽(さっそう)と現れるヒーローが現実に存在しないことを僕らは知っている。
僕らがテレビで夢中になったヒーローは様々だ。人に頼るでなく己の力で立ち上がり、時には立ち上がった者同士で力を合わせて困難を乗り越えていくヒーロー。最初は自覚なく与えられた力に戸惑いながらも戦う意味を見出していくヒーローや、悪に手を染めながらも自身の正義を貫くヒーロー等々…。
様々なヒーロー像を見ることで、昭和から続くジャパニーズヒーロー達が少年だった僕らに知らず知らず教えてくれていた「ヒーロー魂」を改めて考えさせる。決して勧善懲悪だけがヒーローではない、心の弱さやネガティブな部分も全て抱えて戦う。僕らとなんら変わらない心を持っているヒーロー達。言い換えれば、我々もヒーローになれる資格を持っている。
「人間なんて弱いもんさ! その弱さを知ってるから強く優しくなれるんだ。さぁ、僕と一緒に戦おう!」この本を読んでいたら、そんなセリフが聞こえた気がした。きっと、ヒーローは一人一人の心に存在するもので、立ち上がる勇気を僕らに与えてくれる。未曾有の危機に対し、姿形ではなく心や思考を「変身!」させて立ち向かう時が来たのではないでしょうか?
『ヒーロー達の戦いは報われたか』今こそこの問いに答える時ではないでしょうか…。

谷崎光(作家)
選者プロフィール
たにざきひかり
作家。京都生まれ大阪育ち。ダイエーと中国の合弁貿易商社に貿易営業職として就職。在職時代はダイエーの中内功氏から社長賞も受賞した。退職後、1996年に『中国てなもんや商社』(文藝春秋)にてデビュー。松竹で映画化された。2001年から中国に渡り、北京大学経済学部留学を経て、現在、北京在住19年目。内側から見た中国をテーマに執筆活動を続けている。『男脳中国 女脳日本』(集英社インターナショナル)『日本人の値段 中国に売られたエリート技術者たち』(小学館)等、著書は20冊。
note 「月刊 谷崎光のインサイド・アジア」が好評。
ツイッター @tanizakihikari
サイト InsideAsia


私は私のままで生きることにした

キム・スヒョン、吉川南訳/ワニブックス

私は私のままで生きることにした

キム・スヒョン、吉川南訳/ワニブックス

北京で暮らして19年目になる。SARSも経験したが、まさか2度目の感染症禍があるとは思わなかった。

北京は武漢から1,000km以上離れていて、状況は実は深刻ではなかった。
しかし1月のたったの1日で、商店や運転手を含め、一般人もほぼ全員マスクをし、会食は禁止された。
そして閉鎖された武漢から北京への交通は遮断され、マンションやあらゆるビル、施設の入口では体温検査が行われた(今も商店入店に必要である)。さらに宗教活動も含めて全イベント禁止、観光地全閉鎖、春節の休み延長決定、学校休校(オンライン授業)、乗り物も場所も窓開け通気……となるまで3日かからなかった。

発熱者は密告までさせてとにかく早めに全員見つけ出し、検査をする。治療費は全部無料。この時期、熱を出したらどうしようと怖かった。それだけですぐ隔離、検査に回されるからである。そして、日本だと考えられないことかもしれないが、コロナ禍対策のスマホアプリには、感染者の発見場所や行動が公開され、自分とのニアミスまで調べることができる。
オフィスは当初から全リモートワークで、再出勤が始まったときのマスクは会社が社員の2ヶ月分を用意しないと再開営業できなかった。

確かにプライバシーも人権もないが、そこまで徹底した。そして現在に至るまで駅や空港、道路など公共場所の消毒が繰り返されている(中国の詳しい対策はこちらをどうぞ。1月23日に武漢封鎖、1月末にはこのサイトで紹介した対策がほぼ大半行われ、2月10日には全土の新規患者の増加は山を下った)。

結局、全国から出稼ぎ労働者の集まる人口2,200万の都市・北京は、感染者600人弱、死者9人で収まった(4月28日現在/出典)。東京は4月28日現在、感染者4,059人、死亡者112人(いずれも東京都発表)である。
中国の隠蔽だと思いたい向きもいるだろう。が、多少はあるかもしれないが、数字が多ければ住人には隠しきれるものではないし、全人代は5月に開幕しない。
現在は一部のテナントや個人宅の家賃の2、3ヶ月の減免や企業側の社員社会保障の免除、他、電気代の減免等、様々な措置がとられている。地方によっても違う。

中国全土でこうした厳戒態勢が取られている同時期に、春節で中国人が日本に大量に流れ込んだ。そのなかには閉鎖された武漢から逃げた人も含まれていた。
私は日本政府は当然、武漢からの旅行客は制限するだろうと思っていたから、何もしなかったことに仰天した。それどころか、感染地から来た中国人の集団に、レジの店員はマスクもせずに応対した!(上司が禁じた、という話も聞いた) マスコミはPV目当てか、中国をヘイトするだけで、対策の正確な情報は流さない。

結局、日本が中国と近い対応が取れるまで約3ヶ月かかっている。
その間に病気は蔓延した。中国に医療資材はすでにふんだんにあるのに、日本は政府として調達をしなかった。結果、日本の医療現場はすでに崩壊に近い。
紙マスクがないのは、中国が押さえたせいとプロパガンダされているが、他国政府はマスクも防護服も今もどんどん中国から購入している。医療資材がないと医療人員のストが起こり大量死を招くからである。

なのに日本は首相がガーゼマスクをドヤ顔で国民に配り、その背後は汚職疑惑だらけ。そのガーゼマスクの防疫効果はなぜか検査されない。日本は業界団体の利便を図ったせいか、医療用、家庭用のマスクの国家基準すらないのである。
香港大学のデータでは布マスクだけではウイルス阻止率は約8.7%しかない。布は双方向である。日本では感染者からの飛沫を防ぐためと喧伝されているが、ガーゼマスクは少なくとも“細菌”は湿気で増殖され咳で大量に吹き出されるという日本のデータがある。4月28日の『アエラドット』によると、聖路加国際大大学院の大西一成准教授(公衆衛生学)は、届いたアベノマスクの粒子「漏れ率」を計測したが100%の漏れ率だった。)

中国では北京疾病予防センターなど公的機関が地下鉄等で、布マスクは効果がありません、と繰り返しアナウンスして、使っている人は極少である。が、日本政府は肝心の医療機関に防疫資材を与えず、国民は皆布マスクを作り、国を上げて気休めに走っている。
海外から見れば、日本は完全に迷走中の不思議の国である。

一方、台湾は早期に押さえ込んだ。韓国も初期は感染者数が激増したが、その後、徹底した検査により封じ込めに成功した。この差は何か。私にはツイッターで見かけた次の言葉が刺さった。

「台湾の子に言われた。私たちと韓国は近年自分たちで血を流して民主化勝ち取ったから、コロナの対策もできるんだよ。日本はこれからだね」。

日本ではほとんど報道されていないが、韓国はこの近年、大きなマスコミ改革があった。2008年に米国産牛肉BSE問題などで支持を失いかけた韓国政府が、メディアに露骨な介入をする。現在の日本に似ているが、韓国は反発した記者や幹部が首になったり飛ばされたりの戦いの後で独立メディアが勃発し、大手メディアも改革された。 

国際ジャーナリスト組織「国境なき記者団」によると、報道の自由度ランキングは2020年、韓国が42位、台湾が43位、日本が66位である。韓国の記者クラブはとっくになくなっており、今、民主国家であるのは日本だけである。

私は留学で初めて韓国人と仲良くなったが、外から見れば、韓国と日本はかなり似た社会である。狭い国で人は保守的で、財閥系企業が強く、男尊女卑。何によらずブランド志向で、やたら必死で働き、勉強し、ちょっと拝金主義。上下関係は厳しい。
同じマンションに住んでいた若い韓国人女性は、ロビーで会うと、いつも重いドアを開けて私が先に通るのを待っていた。知人でもない私が単に年上だからである。

しかしそんな韓国にも、社会のさまざまな面でムーブメントが起こっているんだな、と感じさせられたのがこの本である。イラストレーターで作家の筆者が書いた、よくある自分を大切にエッセイ、と言ってしまえばそれまでだが、冒頭にこうある。

拷問を受けた人が一番つらいのは、苦痛より拷問官に自分が屈して媚びへつらったこと

日本もひどく自分を捨てさせられる社会である。そしてそういう人はやがて「うえ」に何も言わなくなる。回り回ってその結果が今回のコロナウイルスの、日本政府のダメ対応につながったのではないか、と私は思っている。

中国人はいつだって歯向かう輩である。だから今回中国政府は必死になった。ヘタを打つと、政権が簡単にひっくりかえるからである。 
古代は日本も台湾も韓国も中華文化圏だった。中国が周辺国を扱いやすいようにプロパガンダした儒教で、上に逆らわぬように洗脳されていたとも言える。
しかし台湾も韓国も日本に先駆けて変わった。

レジスタンスはほんの小さな一言から。日本社会の常識などかっとばせ。
あなたはあなたのままでいていいのである。

藤原辰史(京都大学人文科学研究所准教授)
選者プロフィール
ふじはら たつし 1976年、北海道生まれ。京都大学人文科学研究所准教授。
京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程中途退学。京都大学人文科学研究所助手、東京大学大学院農学生命科学研究科講師を経て現職。
専門は農業技術史、食の思想史、環境史、ドイツ現代史。著書に『ナチスのキッチン』『トラクターの世界史』『戦争と農業』『給食の歴史』『分解の哲学』など多数。

『史上最悪のインフルエンザ 忘れられたパンデミック』

アルフレッド・W・クロスビー、西村秀一訳/みすず書房

『史上最悪のインフルエンザ 忘れられたパンデミック』

アルフレッド・W・クロスビー、西村秀一訳/みすず書房

現在の危機をどうやって乗り切るか。こんな問いはピントを外している。乗り越えることは不可能だ。どうやって現在の危機と折り合っていくか、どうやってこの冷徹な現実に対し精神と肉体を保つことができるか、という段階である。この、百年前のスパニッシュ・インフルエンザ(日本ではスペイン風邪と呼ばれた)の歴史書を読めば、私たちがどれほど甘い前提でものを考えているか、たちまち明らかになり、コロナブルーはますます深まるに違いない。しかし、その方が逆に肝がすわり、迷いが少なくなる可能性を私は信じる。
このインフルエンザ・パンデミックは、世界で初めて地球全土を三回駆け巡った災厄であった。足掛け三年のあいだに、少なくとも4000万人、多くて1億人の人命を奪ったものだ。1913年の世界人口が大体18億人だから、世界の18~20人に1人が亡くなった計算である。今回の新型コロナウイルスの感染拡大のスピードも規模も、スペイン風邪に匹敵するものだと言えよう。だから、いま、最も多くのヒントが詰まり、何よりも最初に参照されるべき歴史は、このスパニッシュ・インフルエンザにほかならない。
たしかに、この歴史は楽観の材料にもなりうる。発生当時は、第一次世界大戦の最終年の1918年であり、銃後でも飢餓が発生し、多くの兵士も衛生環境の悪いところにいたが、今回は世界戦争は起こっていない。医療技術は現在と比べて格段に低い。そもそもスパニッシュ・インフルエンザの病原体がウイルスであることを誰も知らなかった。いまの医療技術であれば、ワクチンと特効薬の製造によってこの危機を乗り切ることができるだろう、と誰もが思いたくなる。しかし、当時よりも現在の方が条件が悪い、とも言える。まず、世界人口が現在77億人、当時の4倍強である。大都市の人口密度も現在の方が圧倒的に高い。すでに国連諸機関が警告しているような食料危機が起こったとき、食料を自前で準備できる農業従事者の割合は、現在が圧倒的に少なくなっている。食料は船で輸送されるが、この船こそ、クラスターが発生しやすい乗りものであることは、百年前も今も同じである。輸送が生命線であるという厳粛な事実に私たちはもう少し敏感になるべきだが、とりわけ日本の言論人は食料問題に無関心すぎる。
クロスビーは、環境史研究者である。環境史とは、歴史学の中で自然環境の役割が不当に小さく扱われてきたことに対し、自然環境の役割を強く打ち出す研究手法である。ジャレド・ダイアモンドの『銃・病原菌・鉄』に強烈なインスピレーションを与えた『エコロジカル・インペリアリズム:ヨーロッパの生物学的膨張Ecological Imperialism: The Biological Expansion of Europe, 900-1900の作者だ(邦訳は『ヨーロッパ帝国主義の謎――エコロジーから見た10~20世紀』岩波書店、1998年)。ヨーロッパの新世界への膨張を、雑草や家畜から見ていく手法に、私は心を奪われ、この概念を批判的に用いて、帝国日本の品種改良の歴史について書いたことがある。
彼の歴史を貫く視線がいま役立つのは、病原体や家畜などの非人間の重要性を指摘してくれるからではない。自然に対する人間の小ささを示すようなそんなレベルの道徳が示されているからでもない。未知の自然の危機に対して、人間は、パニックにもなるし、差別主義者にもなるし、尊厳を保つこともできる、という事実を教えてくれるからである。
マスクに慣れていないロサンゼルスの市民が、「反マスク同盟」を作った事例。マスクを着用しない人びとを警察を動員して逮捕した事例。インフルエンザの死者が埋葬が間に合わないくらい増えていたにもかかわらずサンフランシスコの保健委員会の委員長が「インフルエンザの流行がサンフランシスコにやってくるようなことはほとんど考えられない」と言ったり、ロサンゼルスの保健局の責任者も「通常の注意がなされていればインフルエンザに対する特別な警戒などまったく必要ない」と言ったりして油断していた事例。1918年11月11日に戦争での勝利が確定したとき、サンフランシスコの何万人の市民たちが街頭に出て、マスクをして、「熱に浮かされたように幸福感いっぱいに踊り、歌い、行進」していた事例。看護師がすぐに足りなくなり、付き添い看護人の募集が始まった事例。そんな中にあって、盛んに炊き出しを行ない、食べものやスープに列をなして並ぶスラムの人びとに無料で配ったり、インフルエンザで起き上がれない人のためにボランティアがそれらの食べものを配達したりした事例。
私たちは、どんな危機であっても、それに屈する前に、危機の歴史を学ぶことはできる。先回りする知性を生み出すためには、過去を知る必要がある。そのための第一歩として、この書を手にとってみることは、それほど迂回であるとは思わない。

神島裕子(哲学者)
選者プロフィール
かみしま ゆうこ 哲学者。立命館大学総合心理学部教授。一九七一年生まれ。
東京大学大学院総合文化研究科博士課程(国際社会学専攻)修了。博士(学術)。
著書に『正義とは何か』『ポスト・ロールズの正義論』、訳書に『正義論 改訂版』(ジョン・ロールズ著)などがある。

『市民の反抗 他五篇』

H.D.ソロー、飯田実訳/岩波文庫

『市民の反抗 他五篇』

H.D.ソロー、飯田実訳/岩波文庫

コロナ禍は誰しもの日常生活を一変させ、私たちをブルーな気持ちにさせています。以下では、多くの人が現在抱えているだろう不満に寄り添ってくれる二冊を紹介します。

まず、国民の生活を保障する政策になかなか踏み切らなかった政府への不満があると思います。「現金10万円の一律給付」も決定に至るまでに迷走しました。政府の財源の半分強は私たちが納めた税金なのに、そこまで出し渋るならもう税金なんて払いたくない――そう思っている人もいるかもしれません。

19世紀アメリカの講演家でありエッセイストのヘンリー・デイヴィッド・ソローは、本書のタイトルにもなっているエッセイ「市民の反抗」の中で、時のアメリカ政府をのびやかに批判しています。奴隷所有を認め、またメキシコに戦争を仕掛けていた政府は、人間の良心に反することをしていると、ソローは考えたのです。そもそもソローは小さい政府を支持していましたし、また『ウォールデン 森の生活』で知られるように独立独歩の人でしたので、いらないことをする政府に対して怯むことなく筆を進めています。「私は、ただちに政府を廃止しようと言いたいのではなく、ただちにもっとましな政府をつくろう、と言いたいのである。ひとりひとりの人間に、尊敬できる政府とはどういうものかを表明してもらえば、そのことが、もっとましな政府をつくるための第一歩となるだろう」という思いを込めて。

ソローはその表明の手段として、選挙よりも個人の常日頃の行動を重要視しました。「賢者は…多数者の力によって正義が勝つことを願ったりはしないもの」であり、個人は「単なる一片の投票用紙ではなく、自己の影響力のすべてを投じるべき」だからです。「自分が非難している不正には手を貸さない」という原理原則に基づいた行動あるのみ。ソローは、生まれ故郷のマサチューセッツ州に対して、戦争と奴隷制度を放棄するか正しい人間を獄中に閉じ込めるのかの二者択一を迫ろうと、人頭税の支払いを6年間も拒否していました。そしてある日、歩いている途中に知り合いの保安官兼収税吏に支払いの件で親切に話しかけられるも、喧嘩腰に断ったため投獄されたのです。すぐに誰かが「いらぬおせっかいをして」代わりに支払ってしまったため、牢獄生活は一晩だけでしたが。ソローにとって人頭税の支払い拒否は、不正な州政府に対する「宣戦の布告」なのでした。

ただしソローは、隣人(同胞市民)のために「公道税」の支払いを拒んだことはなく、地域の教育活動にも一役買っていたようです。また、政府についてはできるだけ考えないことでその支配を受けないようにするという、超然とした構えも貫こうとしていました。それでもなおソローは「市民の反抗」の最後でこう述べています。「すべての人間に対して正しい態度でのぞみ、ひとりの人間を隣人として敬意をこめて扱う国家が、ついに出現する日のことを想像して、私はみずからを慰めるものである」。

何よりもまず「お肉券」の配布を検討した政府は、一人ひとりの市民に対する敬意にかけているように思います(そもそもベジタリアンが無視されています)。現実には税金なんて払わないとは言えないけれども、せめて本を読んでいる間くらいは、ソローと共に〈市民として自分はどんな反抗をすべきなのか〉を想像してみたいものです。

『なぜならそれは言葉にできるから 証言することと正義について』

カロリン・エムケ、浅井晶子訳/みすず書房

『なぜならそれは言葉にできるから 証言することと正義について』

カロリン・エムケ、浅井晶子訳/みすず書房

また、話がなかなか通じない相手と一緒に過ごさねばならない時間が増えたことへの不満もあるかもしれません。聞いても答えてくれない。誤りを指摘すると不機嫌になる。会話が成立しない。理路整然と話してくれない。辻褄の合わないことを言う。すぐ感情的になる、などなど。
ドイツ出身のジャーナリストで著述家のカロリン・エムケは、本書のタイトルにもなっている「なぜならそれは言葉にできるから 証言することと正義について」において、絶滅収容所への収容、誘拐、戦争下での虐待といった「極度の権利剥奪および暴力」にさらされた人々(証人)が、私たち(被害を受けなかった外部からの証言者)に語ることを可能にするために、私たちは何をしなければならないのかを考察しています。語る能力を奪われた被害者は沈黙し、あるいは脈絡のないことを語ります。彼らへのインタビューや語りの記録の精読からエムケは問います。「世界からも自己自身からも疎外され、単なる物体へと収縮した人間が、どうやって言葉を見つけられるというのか?」 
被害者は尊厳の喪失、恥の感覚、あるいは世界への信頼の喪失によって沈黙しているのかもしれない。そのような彼らに語りを期待することは酷であり、また「語り得ぬもの」の冒涜であるのかもしれない。でもエムケは、人間は他者との会話によってはじめて自分のアイデンティティを持ち、さらにそれを編みなおしてゆくことができる存在であるという哲学に基づいて、また沈黙を礼賛することは「不正と暴力を不可避的に神聖化する」ことにつながるという確信に基づいて、「それでも語る」ことが、被害者が「非人間化された状態から回復する」うえで重要であると説いています。
大切なことは、聞き手であり、語り継ぐ者である私たちが、被害者の信頼を勝ち得るために努力することです。エムケは次のように述べています。「「それでも語る」ことは、受け取り手が語りに完璧さや首尾一貫性を求めるナイーブさを捨てることでしか、実現しない。被害者たちの語りは、間違いや謎を含んでいる。彼らの体験は、それが個人的なものであれ集団のものであれ、語られることで密度を増し、現実の体験そのものよりも高い整合性を持つようになるかもしれない。または、語られることで消耗し、より断片的になるかもしれない。いずれにせよ、それは必ずしも直線的な語りではないし、ましてや完結した語りではありえない」。
いま目の前にいる人は、「極度の権利剥奪および暴力」の被害者ではないかもしれません。そのため本書を持ち出すことは大袈裟な気がします。でも誰もがこれまでどこかで語る能力を奪われたことがあるでしょうし、なかにはそもそも語る能力を育む機会を持てなかった人もいるでしょう。聞き手である私たちのいま少しの忍耐力が必要なことを、エムケは教えてくれます。そしてコロナ禍においては、誰もが未知のウィルスへの恐怖や、先行きへの不安を覚えています。その意味で、いま目の前にいる人は、私たちの聞き手でもあります。私たちの語りや沈黙などと向き合ってくれているのですから。こんな時だからこそ、「お互いに言葉にし合うこと、語り、耳を傾けること」が必要なのかもしれません。

夢枕獏(小説家)
選者プロフィール
ゆめまくら ばく 小説家。1951年、神奈川県生まれ。
77年、作家デビュー。『キマイラ』『サイコダイバー』『陰陽師』などのシリーズ作品で人気を集める。
89年『上弦の月を喰べる獅子』で日本SF大賞、98年『神々の山嶺』で柴田錬三郎賞受賞。
2011年から12年、『大江戸釣客伝』で泉鏡花文学賞、舟橋聖一文学賞、吉川英治文学賞受賞。他受賞歴多数。

『美を見て死ね』

堀越千秋/エイアンドエフ

『美を見て死ね』

堀越千秋/エイアンドエフ

読もうと思って、一年以上も手元に置いていたのだが、読んだのは今年に入ってからである。今のところ、今年読んだ本のベストワンである。
画家である堀越千秋が、『週刊朝日』でずっと連載していたものをまとめた本だ。世界中の絵や彫刻、あるいは美術作品として作者が意図していないものまで、一作ずつカラー写真(絵)で紹介し、評を加えている。いいぞ。文章がいい。天然の現象のように、著者のペンから言葉がこぼれ出てくる。この本の中の138P「無明の風の中で」(曽我簫白『柳下鬼女図屏風』)を読んでごらん。泣くぞ。ぼくは泣いた。涙が止まらなかった。堀越千秋はほんとに凄い。
ゴッホの絵については、こうだ。
「ゴッホの絵を見ると、僕はいつも、泣きたくなる。遠くからでもあそこにゴッホがあるなと分かる。普通に、素朴に、畑のおばさんのように、ある。」
いいだろう。凄ェだろう。
二〇一六年に、マドリードで亡くなられた。
もっと生きて欲しかったよ。

『完本 妖星伝』全三巻

半村 良/祥伝社

『完本 妖星伝』全三巻

半村 良/祥伝社

伝奇小説で、ただひとつ作品名をあげよと言われたら、ぼくは、迷わずこの物語をあげる。伝奇小説で、人間と宇宙を語ってしまおうという作品だ。そして、なんと、みごとに、この物語は、その試みに聖なる失敗までしているのである。こんな物語、地球にない。
神道の巻ラスト一行ーーー
「それは、意志を持った時間、であった」
ぼくはいまだに、この一行の魔法にかかっていて、解けていない。
いいなあ。
うらやましいね、あなた、これを今ならいっき読みできるんだから。
                                    

タカザワケンジ(写真評論家)
選者プロフィール
たかざわ けんじ 一九六八年、群馬県生まれ。写真評論家。早稲田大学第一文学部卒業。
『アサヒカメラ』『IMA』などの写真雑誌に寄稿。評論にとどまらず、写真家、フォトフェスティバルへの取材など写真の最先端でのフィールドワークを続ける。
著書に『挑発する写真史』など。
東京造形大学、東京綜合写真専門学校、東京ビジュアルアーツの非常勤講師、IG Photo Galleryのディレクターなどを務める。

『APPEARANCE』

兼子裕代/青幻舎

『APPEARANCE』

兼子裕代/青幻舎

新型コロナウィルスの流行でカラオケ店が休業要請の対象になっている。まさか「歌う」ことが感染を広げるなんて、こんな事態になるまで一度も考えたことがなかった。
あるできごとをきっかけに、あたり前だったことの意味が変わってしまう。こうした経験は写真を見るときによくあることだ。コロナウィルス禍によって、写真の持つ意味が変わってしまった──そう強く感じた写真集の1つが、今年2月に発売されたばかりの『APPEARANCE』である。
一言で言えば、歌っている人たちの写真集である。撮影場所の多くはアメリカで一部日本。撮影した兼子裕代はカリフォルニア州オークランド在住で、被写体となっているのは彼女の友人、知人がほとんどだ。
撮影場所は室内、屋外とさまざまだが、とくに印象的なのは屋外だ。その多くは緑豊かな自然、ヌケのいい風景を背景にしており、気持ちよさそう。写真には彼らが歌った曲のタイトルが記されていて、その多くを私は知らなかったが、スマホで調べるとたいていはyoutubeで聴ける。するとまた写真の印象が変わる。彼らがなぜこの歌をここで歌ったのか想像したくなる。
きっと写真家は撮影を通して、「歌う」ということがこの世界のどの人にとっても同じように大切で、同じように気持ちがいいことを感じていたのだと思う。そしてその歌い方がさまざまであることも。
しかし、いまや、花見もピクニックも「密」だと言われるいま、こうしてのびのびと歌うことをイメージしずらくなっている。だからこそ、この写真集を見ていると、本来、私たちが持っていた歌う喜びを思い出し、懐かしくすら感じる。
写真家はこのシリーズを2010年から始めている。まさか刊行された年にこんな事態が訪れるとは思ってもいなかったに違いない。しかし、コロナウィルス禍が収まったときに、もう一度この写真集を見たら、また見え方が変わるに違いない。そのときを待ちながら、いまは「歌える」ことの貴重さをかみしめたい。

斎藤貴男(ジャーナリスト)
選者プロフィール
さいとう たかお 1958年、東京都生まれ。ジャーナリスト。
早稲田大学商学部卒業。英国バーミンガム大学大学院修了(国際学MA)。新聞記者、週刊誌記者などを経てフリーに。
『国民のしつけ方』『消費税のカラクリ』『機会不平等』『「東京電力」研究 排除の系譜』『戦争経済大国』(河出書房新社)など著書多数。

『鴻上尚史のほがらか人生相談』

鴻上尚史/朝日新聞出版

『鴻上尚史のほがらか人生相談』

鴻上尚史/朝日新聞出版

ニュースサイト「AERA dot」に連載され、大評判になった企画のよりぬき本です。煩悶する人間集団を率い続けてきたベテラン演出家が、高校生から中高年まで、幅広い世代の男女の、恋愛や友達関係、就活、自分の性格、“毒母”の問題等々に至る悩みを本気で受け止め、優しく、厳しく、具体的かつ実行可能な方法や考え方を答えてくれています。「個性的な服を着た帰国子女の娘がいじめられそうです。普通の洋服を買うべきですか?」に対して、いかにも著者らしく「同調圧力の強さ」と「自尊意識の低さ」は日本の宿痾、と喝破しつつ、「敵は日本という大ボス。正面から切り込んだら必ず負ける」ので、「戦略的におしゃれを」。たとえば「学校では地味な服で、でも親しい友だちとのお出かけや放課後は自分の着たい服を」「今はこの国とうまく付き合う。いずれちゃんと戦える時期も来るでしょう」とかね。
昨年の9月に出版された本ですから、新型コロナに関わる問答は入っていませんが、応用の効きそうな話も盛りだくさん。「学校のグループ内で最下層扱い。本当の友達がほしい」とか「他人に迷惑をかけられるたびに心底いらいらしてしまいます。そのうちトラブルになるのではないかと心配」、「両親がよその国や人を馬鹿にし、ヘイト感情に満ちた差別発言をします」などの相談に対する回答が、私には特に胃の腑に落ちました。

『スモール・イズ・ビューティフル』

E・F・シューマッハー、小島慶三・酒井懋訳/講談社学術文庫

『スモール・イズ・ビューティフル』

E・F・シューマッハー、小島慶三・酒井懋訳/講談社学術文庫

原書は1973年に発表されて世界的なベストセラーになった、いわば現代の古典です。私も学生時代に読み、大きな影響を受けました。最優先されるべきは「成長」ではなく「人間」だと主張し、そのために最適な経済規模やエネルギー、技術、教育のあり方を模索しよう、という呼びかけが多くの支持を集め、一時は国際政治や論壇の重大テーマになりかけたものの、いつの間にか忘れられてしまった経緯が残念でなりません。
現代はしかも、当時の工業社会から情報化社会へと移行し、日本でもより一層のITイノベーションを進めた「Society5・0」を国策とする時代です。「経済発展と社会的課題の解決を両立する、人間中心の社会」を目指すと謳われてはいますが、このビジョンを牽引しているのが21世紀の世界を覆い尽くした「新自由主義」である実態が気に入りません。多国籍企業の利潤を絶対無二の価値と確信し、人間の生命や尊厳よりはるか上位に置いているイデオロギーですから。「人間中心」だなんて大嘘。このまま行けば、私たちを待ち受けているのは何もかもをアルゴリズムに支配され、人間がITシステムとこれを動かす巨大資本および世襲権力に操られ、服従し、奉仕させられるだけの人生を強いられる暗黒ではないのでしょうか。
私たちは今、新型コロナ禍にあって社会経済システムの抜本的な見直しを迫られています。このウイルスは行き過ぎたグローバリゼーションに対する神からの警鐘だ、などという表現は好みではありませんが、せめてそのようにでも受け止めて、よりマシな未来を構想する営みが伴わないことには、もうどうにもならないところまで来てしまっているのだと、私は思います。
3・11福島第一原発の直後に浮上した、新たな時代を問う文明論への機運が、経済成長万能の価値観と巨額の広告マネーの前にたちまち雲散霧消させられた過去を繰り返してはなりません。著者のシューマッハーは、1911年のドイツに生まれ、1929年の大恐慌と過酷なベルサイユ体制下で呻吟する祖国から英国に渡って経済学を修めた人物です。IMF(国際通貨基金)が“大恐慌以来の世界同時不況”と形容する事態に陥っている現在、『スモール・イズ・ビューティフル』は、今度こそ立ち止まって考える、原点にもなり得る本だと思うのです。

豊﨑由美(書評家)
選者プロフィール
とよざきゆみ 1961年、愛知県生まれ。書評家。
ライターとして競馬予想やインタビューなど多岐にわたる仕事を手がけたのち、書評家に。
雑誌、新聞等で数多くの連載をもち、作家、翻訳家からの信頼も厚い。Twitter文学賞発起人。
著書に『そんなに読んで、どうするの?』『ニッポンの書評』『まるでダメ男じゃん!』など、共著に大森望との『文学書メッタ斬り!』シリーズなどがある。

『グルブ消息不明』

エドゥアルド・メンドサ、柳原孝敦訳/東宣出版

『グルブ消息不明』

エドゥアルド・メンドサ、柳原孝敦訳/東宣出版

「自宅にこもらなければならない今だからこそ、本を読もう!」的なお気楽な言説に触れるたび、正直いって「読書が気晴らしになるのは、この新型コロナウィルス禍にあって恵まれてる人なんだってば」と舌打ちしたくなる。というのも、小説における物語や人文書における論旨っていうのは、たどっていくのに意外と頭を使うからだ。苦痛や不安を抱えていたり、直近の金策に頭を悩ませている状態で読書に集中できるはずがない。

だからね、大変な状況にある人は「本を読もう」なんて思わないでください。「みんなはたくさん本を読んでいるみたいなのに、自分は……」と落ち込まないでください。ネットで動物や赤ちゃんの動画を見てるほうが、精神衛生上ずっといいです。で、ちょっと回復してきたら、わたしが紹介する腹の底から笑える、あまり長くない小説を読んで、ほんのひととき憂き世を忘れてください。

それはエドゥアルド・メンドサの『グルブ消息不明』(東宣出版)。メンドサといえば、万国博覧会が開催された1888年と1929年にはさまれた約40年間のバルセローナを舞台にしたピカレスク・ロマン『奇蹟の都市』(国書刊行会)で、日本の海外文学好きにも知られているスペインの作家。『グルブ消息不明』もまた、1992年のオリンピック開催を控えた都市整備でしっちゃかめっちゃかな1990年のバルセローナが物語の背景にある。

主人公は地球外生命体の〈私〉。800年間にわたる相棒のグルブと共に喧噪のバルセローナに降り立ったのだが、マルタ・サンチェス(実在するグラマラスな歌手)の外見を選んだグルブが、現地住民男性の運転する車に乗りこんだまま連絡を絶ち、街中探し回るはめになる──というのが物語の大筋だ。で、そんな16日間にわたるグルブ捜索の顛末が、もう、おかしいったらありゃしないのである。初めて街の中に出現するや、いろんな乗り物に轢かれまくり、そのたびに落ちてしまう頭部を噴水で洗う場面から大笑い。

純粋知性体の〈私〉は肉体を持たないので、外出のたびに『形状推薦目録』の中から著名人の容姿を借りるのだが、それがすでにトラブルのもとなのだ。たとえば、ゲイリー・クーパーの外見を選んだ際は、
〈一○・○一 ナイフを手にした悪ガキどもの集団に財布を奪われる。
 一○・○二 ナイフを手にした悪ガキどもの集団にピストルと保安官の星バッジを奪われる。
 一○・○三 ナイフを手にした悪ガキどもの集団にヴェストとシャツ、ズボンを奪われる。
 一○・○四 ナイフを手にした悪ガキどもの集団にブーツと拍車、それにハーモニカを奪われる〉

という災難に見舞われるといった具合で、つまり、西部劇におけるクーパーそのままの姿をなぞっているので、現実にそぐわないことはなはだしいのである。
 
丈夫な靴が欲しくて買ったのがスキーブーツと板だったり、銀行口座を操作して得た大金で同じネクタイを94本買うなどの常軌を逸した買い物をしたり、揚げ菓子が気に入って10キロ一気食いしたり、同じアパートに住むシングルマザーに恋をすれば奇矯なふるまいで気味悪がられる。そうしたエピソードの数々が、すべて真剣に真面目に、しかも繰り返し行われるものだからおかしくてしかたないのだ。

地球のことを何も知らない宇宙人の〈私〉の経験が、笑いとともに、わたしたちの常識や慣習でくもった目をまっさらにし、人間の営みの滑稽さや愛おしさを新鮮な気持ちで再確認させてくれる。これはそんな異化効果の見本のような小説なのである。

でも、それだけじゃない。中国に生まれ、サン・フランシスコに移住するつもりがバルセローナに着いてしまい、以来ずっと住んでいるのに、いまだに日曜日になればゴールデンゲート・ブリッジを探しに行っている中華料理店の主人と意気投合する場面は、異邦人であることの哀しみと郷愁を伝え、近所のパブの老夫婦との交流を描くくだりでは、どれほど異なる出自であろうが、理解しあおうとする気持ちさえあれば友人になれることを示す。〈私〉のトンチンカンな言動で笑わせながらも、この物語から浮かび上がるのは思いがけないほど温かなメッセージと、自国重視&移民排斥という狭量な世界観に対する強烈な反発なのだ。

この陰鬱な世界的危機状況下の憂さを、読んでいる間だけは吹き飛ばすほどの威力の笑いと、宇宙人を主人公にしながらひしひしと伝わる人間の哀歓。200ページほどの短い物語の中に読みごたえがみっちり詰まっている、まごうかたなき傑作小説なのである。

さて、見知らぬ男性の車に乗り込んで消息不明になったグルブはどうなったか。それは、読んでのお楽しみ。物語の筋が追えるくらいに心身の状態が回復したら、ご自分で確認してみてください。

小林紀晴(写真家・作家)
選者プロフィール
こばやしきせい 1968年長野県生まれ。写真家・作家。東京工芸大学教授。
東京工芸大学短期大学部写真技術科卒業後、新聞社カメラマンを経て1991年に独立。1995年、『ASIAN JAPANESE』でデビュー。
『DAYS ASIA』で日本写真協会新人賞。写真展「遠くから来た舟」で林忠彦賞受賞。
『愛のかたち』『見知らぬ記憶』『まばゆい残像』など著書多数。最新写真集は『孵化する夜の鳴き声』

『人間の土地』

サン=テグジュペリ、堀口大學訳/新潮文庫

『人間の土地』

サン=テグジュペリ、堀口大學訳/新潮文庫

2001年、ニューヨークに一年ほど暮らしているときに同時多発テロに遭遇した。事件から少し経ったころ炭疽菌(たんそきん)事件が静かに始まった。その菌が郵便物に入れられてニューヨーク中の報道機関や人へ送りつけられた。実際に数名の方がその菌によって亡くなった。日本ではあまり報道されなかったようだが、ニューヨーク市民の多くが、それに翻弄された。私も気が休まらず疲れ果てた。あの時の状況と今回のことがほんの少しだけ重なって感じられる。
当時住んでいたすぐ隣のブロックの郵便物からそれが見つかると、アパートの住民の誰もが疑心暗鬼になった。ポストから郵便物を出す時、口を閉じ、指先でつまみ上げるようしておそるおそる取り出した。そんな日常がしばらく続いた。
そんななか、現地の紀伊國屋書店でなんとなく手にしたのが本書だ。
「あのともしびの一つ一つは、見わたすかぎり一面の闇の大海原の中にも、なお人間の心という奇蹟が存在することを示していた」という一節がある。この文章に触れた時、どういうわけか心が穏やかになった。
飛行士であるサン=テグジュペリが夜間飛行の際、眼下に「ぽつりぽつりと光っている」明かりに思いをはせ、そこに暮らす人々の姿を想像するのだ。
上空からのその眼差しを、私は人間への絶対的な肯定だと感じた。だから、あのとき、その一文に眼が留まったのではないか。
「努めなければならないのは、自分を完成することだ。試みなければならないのは、山野のあいだに、ぽつりぽつりと光っているあのともしびたちと、心を通じあうことだ」と文章は続く。
ここには深い孤独がある。同時に、誰かの存在がなければみずからの存在はあり得ない、誰かの孤独がなければみずからの孤独もありえない、と語っているように感じられた。それを「心の奇蹟」と呼んでいるのかもしれない。

根井雅弘(経済思想史家)
選者プロフィール
ねい まさひろ 1962年生まれ。京都大学大学院経済学研究科教授、経済学博士。
早稲田大学政治経済学部卒業後,京都大学大学院経済学研究科博士課程修了。
専攻は現代経済思想史。
『経済学の歴史』『ケインズを読み直す 入門現代経済思想』『経済学者の勉強術』
『ものがたりで学ぶ経済学入門』など著書多数。

『いきいきと生きよ ゲーテに学ぶ』

手塚富男/講談社現代新書

『いきいきと生きよ ゲーテに学ぶ』

手塚富男/講談社現代新書

新型コロナウィルスによる感染症拡大が全世界の問題となった頃から、新聞もテレビもインターネットも新型コロナ問題ばかりの記事で埋め尽くされるようになった。それはそれで至極真っ当なことである。感染拡大を抑え込むために不眠不休で働いている感染症専門家や医療従事者等の心労は想像するに余りある。だが、世の中が外出自粛や一部の業種の営業自粛の方向に流れるにつれて、「コロナ疲れ」とか「コロナ鬱」といった言葉をいろいろな機会に目にするようになった。

このようなご時世だから、カミュの『ペスト』(新潮文庫)がにわかに注目を浴びるようになったのも肯ける。私も懐かしさもあって再読した。このウェッブサイトに載った内田樹氏の文章も興味深く読んだ。私は、主人公のリウーがペストと闘うには何よりも「誠実さ」が大事なのだと叫ぶように言っている場面が印象に残ったが、たしかに、今回のコロナウィルス問題も、テレビに登場する政治家や官僚や関係者などの「誠実さ」を問いたくなるような光景が何度も見受けられた。しかし、それを糾弾するのがこの文章の目的ではない。

今回の感染症は、ある専門家によれば、100年に一度のものらしいのだが、そういえば、私の頭の中にもスペイン風邪というひどい感染症があったという歴史の知識があり、あの偉大な社会学者、マックス・ウェーバーもその感染症が原因の肺炎で亡くなったのだ。1920年のことだから、今年は没後100年ということになる。だが、これも学生時代に読んだ『仕事としての学問 仕事としての政治』(野口雅弘訳、講談社学術文庫、昔読んだのは岩波文庫だった)のページをめくりながら、政治家に必要な三つの資質、すなわち「情熱」「責任感」「目測能力」というところに差し掛かったところで、この国の現状はあまりにも厳しいと痛感して本を閉じてしまった。どうもこういう非常事態の読書はなかなかうまく進まない。

感染症問題には素人の私のような経済思想史家が手にとる本は、おのずと違ったものになるのだろう。だが、ウェーバーの近くに、これも古い本ながら、手塚富男『いきいきと生きよ ゲーテに学ぶ』(講談社現代新書)が置いてあった。すでにカバーもなくボロボロなので、電子書籍を探し、それで改めて読んでみた。もちろん、私はそれほどゲーテに詳しいわけでもないし、啓蒙書とはいえ、この本が現時点でのゲーテ研究からみてどのように評価されるのかも知らない。しかし、いまはそんなことは、どうでもよい。私は久しぶりに読んで元気づけられたのだから。

この本は、簡単にいえば、手塚氏がゲーテの名言を引用しながら自分なりの解説を試みたものだが、ゲーテの名言もさることながら、私は、手塚氏がそれをどのように読み解いて人生の指針にしてきたかを正直に書いている姿に好感をもった。例えば、「箴言と省察」から次の言葉が引用されている。

「思索する人間の最も美しい幸福は、探求しうるものを探求しつくし、探求しえないものを静かに敬うことである。」

この名言の解説の中で、手塚氏は次のように書いている。「われわれのもつ探求の力をつくして、しかもわれわれは探求しえないものの前に静かに畏敬をささげることを知らねばならない。近代精神はしばしばその点で、思い上がった無知におちいって、人間離れの状態を現出した。人間が人間であることを自覚すること、これはかえって大きい勇気を要する決断である」と。
「箴言と省察」には、次のような言葉もある。

「詩人は真実を愛する。真実があるところ、詩人はかならずそれを感じ取る心をもっている。」

手塚氏は、文学者ばかりでなく自然科学者や政治家でもあったゲーテを考慮したのか、この名言を次のように読み解く。「詩と学問ないし科学は、感情と悟性との対照によって両極端をなすように思われるが、真実という根から生じて、結局は同一のものである。……現代は、正義の名において政治が最尖端に立っている時代である。正義はむろん真実の一態であるが、政治意識が激化すると、意識的、無意識的に真実をゆがめて、政治的目的だけの達成をはかる。それはくりかえしわれわれが見聞きしていることである。こういう政治行動はつまり詩をもたないのである。現代ほど詩に遠い時代はない。また詩が必要である時代もない。しかし望みはある。それは民衆というものは、時によると際限もなく愚かになるが、その本質において詩人であるということである」と。
正直に言って、この本はたぶん青年時代のいつかに読んだのだろうが、現在のような危機に陥る前、何度か振り返って再読したものではなかった。しかし、再読して改めて自分がゲーテの懐の深さを少しも理解していなかったことに気づかされた。次も「箴言と省察」からの引用だが、この解釈は少しばかり難しい。

「現在の世界は、われわれがそのために力をつくすだけの値打ちのないものである。なぜなら、いまある世界は、一瞬たてば滅びてしまうであろうから。われわれは過去の世界と未来の世界のために努力しなければならないのだ。すなわち、過去の世界のためには、その功績を認めること、未来の世界のためには、その価値を高めることをこころざさなければならない。」

この危機の最中、私も経済学を学んだ者として、コロナウィルス問題がもたらす世界的大不況に対してどのような対策を講じるべきかについて意見を求められることがあったが、それは「現在」あったはずの世界をなんとかして復元したいという関心が高かったからだろう。しかし、「現在の世界」というとき、ゲーテは、そんなことを考えていたのではなかった。手塚氏の文章を読んで疑問がとけた。「つまりここで「現在の世界」といわれているのは、「流行」「時流」「一時の成功」などの語と置きかえることができるのであって、そういう目先のことを目標にするなといましめ、現在の努力を、過去と未来、すなわち人間の長い歴史のために役立てることをすすめているのである。過去の功績を認めるのは、その遺産を受けて、それを生かしてゆくためである。おそらく、ゲーテは、眼前の時流に満足できないとき、こういう考え方で、現在の自分のいそしみを裏づけようとしたのであろう」と。

いわれてみれば、現在、「社会的距離」をとるために準備しているオンライン講義、ヴィデオ会議、テレワークなどは、技術的には、危機の前に十分可能になっていたものばかりだった。だが、それらを「有事」のためにあらかじめスタンバイしておこうという発想は薄かった。中国やアメリカなどで経済活動が強制的に自粛を余儀なくされたあいだ、都市の澄んだ空気が見事に蘇った映像をテレビ報道でみたとき、これまでの経済成長至上主義がいかに地球環境に負荷をかけてきたかを反省する契機にもなった。日本人の働き方も、満員電車に揺られて出社するという旧態依然からもっと早く脱して、21世紀にふさわしいものに変えていくべきではなかったか。そんなことがいろいろと頭に浮かんできた。在宅であろうと、本を読むのは自由である。昔読んだ本でも、こんなことがあったという参考になればと思って、急遽、求めに応じて一文を書くことにした次第である。

近藤邦雄(集英社インターナショナル 新書編集長)
選者プロフィール
こんどう くにお 集英社インターナショナル新書編集長。1964年、香川県生まれ。

『仮面病棟』

知念実希人/実業之日本社文庫

『仮面病棟』

知念実希人/実業之日本社文庫

3月半ば、コロナとは違う病気で、人生初の入院生活を経験しました。
コロナの影響で同居している親族以外の面会が禁止であったり、看護師さんたちの「私たちには在宅勤務はありませんから」という声を聞いたり、たしかに病院というところはそういう所だよな、と思ったものです。
日曜日、看護師さんたちスタッフの顔ぶれがガラッと変わり、それまでと違う時間に検温などがありました。「週末だからかな」と納得しながら、「テロリストに乗っ取られていたりして…」などと、小説のプロットのような想像を巡らせました。ポイントはテロリストの要求とそれを達成した後の病院からの脱出だなと考え、友人に「どう思う?」とメールをしました。
「『仮面病棟』、知ってる?」と友人からの返事。知らない私は無理を言って届けてもらいました。
強盗の侵入、巻き込まれる当直医、病院が抱える秘密…など、当然のことですが私のアイデアなど大きく上回り、完全に先にやられている感を病院のベッドで味わったものです。
退院してから思うのは、あの病棟で今、どんな時間が流れているのだろうということです。人生そのものが病室だと歌ったのはさだまさしですが、夜「痛いよう~」と叫んでいたYさん、外国にいる娘さんがコロナに感染し日本に戻れなくなったSさん、トランプ占い好きのKさん。スタッフの人たち。
みんなが本当の春を待っていました。ニュースで見る世界中の病棟でもそうです。
『仮面病棟』は、日常→病気→病院→日常→…という関係を教えてくれる本でした。

春日武彦(精神科医・作家)
選者プロフィール
かすがたけひこ 精神科医・作家。1951年京都府生まれ。日本医科大学卒業。
産婦人科医を経て精神科医に。
『無意味なものと不気味なもの』、『私家版 精神医学事典』、『猫と偶然』『援助者必携 はじめての精神科』など著書多数。
『様子を見ましょう、死が訪れるまで』など小説も手がける。共著に穂村弘との『秘密の友情』、平山夢明との『サイコパスの手帖』など。

『人生の段階』

ジュリアン・バーンズ、土屋政雄訳/新潮クレスト・ブックス

『人生の段階』

ジュリアン・バーンズ、土屋政雄訳/新潮クレスト・ブックス

不安と恐怖、得体の知れぬ気味悪さ、人影の消えた繁華街のシュールな眺め、対岸の火事めいた非現実感と医療現場の生々しさとの対比――まったくのところ、コロナはわたしたちを困惑させる。おそらく今後、人類は変異を重ねるコロナウィルスと危うい共存を図っていかなければならないだろう。それが未来永劫続く。そんなことを考えると、じわじわと無力感が前景化してくる。少なくとも現時点のわたしの心は、激しさよりも「やるせなさ」という妙に静まりかえった響きの言葉がもっとも当てはまる状態にある。

やるせなさについて考えるとき、真っ先に思い浮かぶのはジュリアン・バーンズの『人生の段階』である。これはいささか不思議な本で、全体が三つのパートに分かれる。最初は「高さの罪」と題され、気球の歴史とナダールによる(気球から撮影した)空中写真についてのドキュメンタリーが語られる。二番目のパートは「地表で」と題され、女優サラ・ベルナールと気球乗りでもあった軍人フレッド・バーナビーとの恋を描いたフィクションである。そして最後のパートは、長年連れ添った妻(バーンズの小説の良き理解者でありエージェントも務めていた)を病気で失った作家バーンズの悲しみ、喪失感、やり場のない怒り、寂しさ、無気力、そして「やるせなさ」についての内省的なエッセイである。

この本のテーマは、妻を亡くした小説家がいかに現実と折り合いをつけようとしたかの記録である。したがって本来的には三番目のパートのみで語るべき内容は十分の筈だし、読み応えもしっかりあるのだ。にもかかわらず、時代も場所も異なる二つのパート、しかもドキュメントとフィクションといったものが一冊の中に同居している。そしてバーンズは三つのパートが揃ってこそ悲しみのメモワールが成立すると考えている。多くの読者はそこに困惑する。実際、訳者あとがきにおいても「本書は三部構成になっている。主眼が第三部にあることは疑いがなく、第一部と第二部はそこに至るための導入部分だが、一読すると、どちらも本論たる第三部との関係がさほど強くない。独立させるまでもなかったのでは……と思わなくもない」と書かれている。

ではなぜ二つの「余分な」パートが書かれたのか。なるほど第一部は「組み合わせたことのないものを二つ、組み合わせてみる。それで世界が変わる」と書き出され、第二部では「これまで組み合わせたことのないものを、二つ、組み合わせてみる。うまくいくこともあれば、そうでないこともある」と始まり、第三部は「これまで一緒だったことのない者が、二人、一緒になる」と語り出される。確かに相似した文章である。でも、やはり第三部と第一、二部との内容には隔たりがあり過ぎる。

わたしの勝手な推測を述べるならば、おそらくバーンズはいきなり第三部を書き始められなかった。それだけの気力を振り絞れなかったし、きわめて個人的な苦しみを、あたかも普遍に通じるかのように語るのには躊躇したのだろう。羞恥心も関与していたかもしれない。でも第一部や第二部なら、手慣れた仕事として仕上げられる。しかも他人には不明瞭であろうと、彼にとって第一部や第二部と最後のパートとはしっかり詩的連想という「個人的と普遍的との中間的な紐帯(ちゅうたい)」によってつながっている。ドキュメントと小説とエッセイとを詩的連想でつなげたところに、バーンズなりの救済のイメージがあったのではないか。

とにかく慣れ親しんだやり方で第一部や第二部を作り上げ、ささやかながらも達成感や充実感を味わい、そこから率直かつ痛ましい吐露へとスライドしていく。その方法論は、わたしたちが辛い状況から回復していくプロセスと似ていないだろうか。まずは日常生活を大切にし、出来る範囲で丁寧にものごとをまっとうしていく。そうした愚直さに似ていないだろうか。

『人生の段階』は、読者を微妙にまごつかせる。が、その歪(いびつ)な部分にこそ、救いへ向かう意志が埋め込まれている。

酒井邦嘉(言語脳科学者)
選者プロフィール
さかい くによし 言語脳科学者、東京大学大学院教授。1964年生まれ。東京大学大学院理学系研究科博士課程修了。
1996年マサチューセッツ工科大学客員研究員、2012年より現職。第56回毎日出版文化賞、第19回塚原仲晃記念賞受賞。
脳機能イメージングなどの先端的手法を駆使して人間にしかない言語や創造的な能力の解明に取り組んでいる。
著書に『チョムスキーと言語脳科学』『言語の脳科学』『科学者という仕事』『脳の言語地図』(明治書院)など。

『蜜蜂と遠雷』(上下巻)

恩田陸/幻冬舎文庫

『蜜蜂と遠雷』(上下巻)

恩田陸/幻冬舎文庫

「自然は優しく人間を包んでくれているだけではない。むしろ、古来より人間を打ちのめし、常に絶滅の一歩手前まで人類を追いこんできたのだ」という小説内の言葉は厳しい。しかしミクロコスモスたる人間には、音楽という救いがある。音は「いつもその一瞬だけで、すぐに消えてしまう。でも、その一瞬は永遠で、再現している時には永遠の一瞬を生きることができる」、それが演奏なのだ。そして、ピアノコンクールという過酷な状況でも互いに感化し合い、高め合う若者たちの何と清々しいことか。音楽の意味をこれほどまでに突き詰めた作品は希有である。引用曲の音源を聴きながら(映画化された四人の演奏も素晴らしい)、丹念に読みたい。アンコールには、スピンオフ短編集『祝祭と予感』を。これにまさるカンフル剤はないと思う。

『絶品! 4×4マスの詰将棋』

伊藤果/マイナビ将棋文庫

『絶品! 4×4マスの詰将棋』

伊藤果/マイナビ将棋文庫

テレワークやネット会議に疲れ、一人で煮詰まったり、孤独感に苛まれたりする時には、孤高のソリティア「詰将棋」がある。駒の動かし方を知っていても詰将棋には縁遠かった人には、究極の一冊。著者自ら「箱庭」と呼ぶ、4×4の限られた枠内の初期配置から、詰将棋の魅力が溢れ出す。まずは第1章の3手詰めから。中級者は問題図を記憶して、暗算(図や盤を見ずに脳内で解くこと)に挑戦してみたい。これぞ指し将棋に強くなるための極意でもある。詰将棋解答選手権・チャンピオン戦(今年は残念ながら中止)で5連覇中の藤井聡太七段も、「箱庭」作品をいくつか創っており、今後が楽しみだ。

『盤上のフロンティア』

若島正/河出書房新社

『盤上のフロンティア』

若島正/河出書房新社

現代を代表する詰将棋作家による、最新の作品集。著者自ら「詰将棋にはまだまだ未開拓のフロンティアが広がっている」、「将棋盤という一見狭そうに見える世界は、とても一人では探索しきれないほど広大なのだ」と語る。この本の素晴らしさは、「自分で問いを立て、自分でその答えを見つける」という創作の過程が惜しみなく言語化されていることにある。そして、「詰将棋では、現実に起こらないようなことでも、必ず実現できる」という力強い言葉に勇気づけられる。江戸時代には『将棋無双』や『将棋図巧』のように、創造的で奥深く、そして芸術的で美しい図式集があった。閉ざされた環境で、しかも制約が大きければ大きいほど研ぎ澄まされる人間の創造力の極致を鑑賞したい。

井手英策(財政社会学者)
選者プロフィール
いでえいさく 財政社会学者。慶應義塾大学経済学部教授。
1972年、福岡県生まれ。東京大学卒業。東京大学大学院博士課程単位取得退学。専門は財政社会学、財政金融史。
日本銀行金融研究所勤務などを経て現職。
『経済の時代の終焉』(大佛次郎論壇賞)『幸福の増税論』『いまこそ税と社会保障の話をしよう』『ソーシャルワーカー』(共著)など著書多数。

『苦悩する人間』

ヴィクトール・E・フランクル、山田邦男、松田美佳訳 / 春秋社

『苦悩する人間』

ヴィクトール・E・フランクル、山田邦男、松田美佳訳 / 春秋社

その苦しみは誰のためか、自分のためか、それとも他者のためか――精神科医であり哲学者でもあるヴィクトール・フランクルはこう僕たちに問いかける。

もし自分のためだとすれば、「私は私だから」という永遠の同義反復にたどりつく。苦しいのも、辛いのも、悲しいのも、それは私が私だから、私がかわいそうだから、というふうに。

反対に、他者のための苦しみであれば、その苦しみにはかならず「意味」がある。意味を発見したとき、人びとはその苦しみを受け止め(=「受苦」)、乗りこえることができる。

この本のなかに印象的なくだりがある。妻をなくして生きる希望を失った患者がいた。彼へのフランクルの処方箋は明快極まるものだった。

「仮に彼が妻よりも先に死に、妻の方が長生きしていたらどうなっていたかを考えてもらいさえすればよいのです……そうすれば、妻が苦しまず悲しまずにすんだこと、ただその代わりに自分自身が悲しみ苦しむことで代償を支払わなければならないことがすぐに彼にわかります」

患者は薬ではなく、生きることのうちに、「妻の苦悩を代わりに引き受けた」という「意味」を取り戻すことによって、自我を回復した。けっして苦悩がなくなったわけではない。だが、患者は、「苦悩の無意味さ」から解放され、生きていることの価値を再び見いだしたのだ。

フランクルは、第二次世界大戦中に強制収容所に送りこまれ、所内で両親と妻を亡くすという悲劇的な体験をした。そんな彼だから、愛する家族すべてを失った彼だからこそ、苦しみに意味を見いださなければ、人間は生きていけないことを知っていたのだろう。

「受苦」のうちに人間の本質を見出したフランクルは、人間を「ホモ・パティエンス(苦悩する人)」と定義する。「ホモサピエンス(知性ある人)」でも、「ホモ・エコノミカス(合理的人)」でもない。強く、自立した存在とはことなる、苦悩する存在としての人間像だ。

こんなことがあった。僕は、ある経済学者にたいして、「医療費をタダにしたらどうだろう」と問いかけた。するとその人はこう答えた。「そんなことをすれば、蚊に刺されただけでも子どもを病院に連れてくるような、ムダ遣いのかたまりのような社会になりますよ」。

たしかに、合理的な個人である「ホモ・エコノミカス」は、タダで医療が受けられるのだから、ためらうことなく医療サービスを使いたおすだろう。しかし、苦悩する人間である「ホモ・パティエンス」は、自分の行為が浪費かもしれないと悩みながら、子どもの健康への心配におびえ、葛藤したはてに病院に向かうことだろう。

現実の人間はこの両者の中間である。だが、「ホモ・エコノミカス」のムダ遣いを理由に医療サービスを削減し、「ホモ・パティエンス」が医療費から排除される社会よりも、ムダ遣いが仮に起きるとしても、苦悩する人間すべてが幸福になれる社会を僕は迷わずにえらぶ。

いま僕たちは新型コロナウィルスの恐怖のなかで生きている。だが、だれもが、自分の健康ではなく、か弱き人びとに感染させることを恐れ、他者の健康と幸福を祈りながら、さまざまな私的活動を控えている。

この自粛は無条件の正義ではない。なぜなら、自粛の結果、経済は停滞し、多くの中小企業ではたらく人たち、非正規ではたらく人たちを絶望の淵においやりつつあるからだ。

しかし、そのことでもまた、多くの人たちが心を痛めている。政府のなかで、メディアをつうじて、ネット上で、あるいは日々の人びとの思考や会話のあちこちで、絶望の淵に立つ人びとへの支援のありかたが語られ、模索されている。

危機の時代にこそ、人間の本質があらわれる。

生活の品々を買いためた「ホモ・エコノミカス」がいた。その人たちは「自分の苦しみ」に呻吟している人たちだった。これは「受苦」とは言えないし、率直にいって悲しくなるできごとだったが、これもまた、たしかな人間の一面だった。

しかしながら、同じ社会を生きる仲間の痛みに思いをはせ、苦悩を引き取ろうとする「ホモ・パティエンス」も大勢いる。たとえば布マスクのように、スーパーに並んだ人たちよりもはるかに多くの人たちが、そうせずにすむための工夫を考えた。そして、品物を買いためた人たちもまた、自分たちの行動に、他者と争い、傷つけたことに、苦悩したにちがいない。

フランクルはこう締めくくっている。

「死せる人々のことを偲ぶだけでなく、生きている人々を赦しましょう。あらゆる死を乗り越えて、死せる人々に手を差し伸べるのと同じように、あらゆる憎しみを乗り越えて、生きている人々にも手を差し伸べたいと思います。そして、死者に名誉あれ、という言葉に、さらにこう付け加えたいと思います――善意あるすべての生者に平和あれ」
 
医療や福祉の最前線で闘う人、病と闘う人、彼らへの称賛とともに、まずしさと闘う人、従業員のために闘う人、そして、苦悩し、日々を生きる善意あるふつうの人たち、すべての人びとに平和を。苦悩し、意味を見いだし、痛みを乗り越えていくすべての人間たちに祝福を。

ウルフルケイスケ(ミュージシャン)
選者プロフィール
ウルフルケイスケ
ミュージシャン、ギタリスト。1965年、大阪府出身。ロックバンド・ウルフルズのギタリスト、リーダーとして、1992年デビュー。バンドで活躍する一方、多数アーティストのレコーディングやイベントにも参加しながら、ソロ活動も精力的に行う。2018年2月、ソロ活動に専念するためウルフルズとしての活動を休止。現在は不思議でステキな出会い=マジカル・チェインをテーマに日本全国津々浦々を弾きめぐる。愛称は「ミスタースマイル」「笑うギタリスト」。

『BORN TO RUN 走るために生まれた』

クリストファー・マクドゥーガル、近藤 隆文訳/NHK出版

『BORN TO RUN 走るために生まれた』

クリストファー・マクドゥーガル、近藤 隆文訳/NHK出版

ランニングのいいところは体調面はもちろんだが、一番は頭がスッキリするところかなと思う。煮詰まったりした時はとりあえず考えるのをやめてランニングして頭をリセットしてみる。いいアイデアがすぐに浮かぶわけはないが、気分が少しだけ上向きになる気がする。
フルマラソンに挑戦したり走り始めてからランニングに関する本はたくさん読んだが、たどり着いたのがこの本。メキシコの“走る民族”タラウマラ族の話から始まり、走ることの科学的な説明や、実際のウルトラランナーのレースの話、走るための技術的なことより最終的にはヒトはなぜ走るのかというところに向かって話は進んでいく。
自分はテクニックよりも気持ち、スタイルより自由さを大事にして音楽活動をしているが、びっくりするぐらいこの本で紹介される走ることに対する考え方やイメージの仕方と、ギターを弾く時の気持ちと重なることが多い。スポーツでも音楽でもそれ以外のどんなジャンルでも、何かをクリエイトしたり挑戦したりするときに思い描いたりイメージすることの根本は同じなのかなと思う。
「人は年をとるから走るのをやめるのではない、走るのをやめるから年をとる」、どんなジャンルにも通じるいい言葉だ。
難しい事抜きで、読後感がフルマラソンを走ってゴールした後くらい爽快でスッキリな本。今はなかなか外に出て体を動かすことも難しい状況になっているが、コロナが早く収束して思いっきり深呼吸して思う存分走れるようになるといいな。

『旅をする木』

星野道夫/文春文庫

『旅をする木』

星野道夫/文春文庫

旅をよくする。
ギター1本抱えて北から南まで、待ってくれている人がいる町をめぐり音楽を届けるのが今の主な活動のスタイル。その移動中にいつも荷物の中に入っているのがこの本。アラスカを舞台に語り口は静かだが力強く綴られる文章、すごく簡単でシンプルだが味わい深い言葉。
今はなかなか旅をすることはかなわず、ずっと家に閉じこもっていると、近くを見過ぎて視野が狭くなって自分の中へ中へと入り込んでしまいがちになり、ついつい袋小路に突き当たる感覚に包まれてしまう。そんな時に、今日、明日という視点ではなく、10年、20年、もっと長い時の流れを感じながら今の自分を見つめる星野道夫さんの言葉にはっとさせられる。現実から逃避するのではないが、こういうときだからこそ俯瞰から自分を見つめる事も必要なのかなと思う。
鳥がついばみながら落とした種子が大木に成長して、雪解けの洪水にさらわれ、流木となり打ち上げられてストーブの薪になり、その煙がまた新しい旅の始まりになる「旅をする木」という話が好きだ。

『人生に、寅さんを。『男はつらいよ』名言集』

松竹/キネマ旬報社

『人生に、寅さんを。『男はつらいよ』名言集』

松竹/キネマ旬報社

ライブツアーで全国を旅していると、ふと寅さんと自分が重なるときがある。旅先でいろんな人と音楽に出会う。そんな時にいつも寅さんの「そう、心で歌え、心で」の言葉を思い出す。
先日ギターを弾き始めてから、初めて無観客配信ライブをやった。目の前にはカメラだけのステージ。その時も寅さんのこの言葉を心で噛み締めながらギターを弾いた。

立川談笑(落語家)
選者プロフィール
たてかわだんしょう
落語立川流所属の落語家。1965年、東京都出身。早稲田大学法学部卒業後、92年に立川談志に入門。96年、二つ目になり6代目立川談笑を襲名。2005年に真打昇進。従来の古典落語に大胆かつ緻密な工夫を施し人気を集め、立川流四天王のひとりとして活躍。出囃子は『野球拳』。高座だけでなく、テレビやラジオのレポーターとしても活動中。

『哲学と宗教全史』

出口治明/ダイヤモンド社

『哲学と宗教全史』

出口治明/ダイヤモンド社

落語家も仕事がありません。だから、日がな一日おうちにいますよ。あー、退屈。もうー、退屈。たとえるなら、落語に出てくる若旦那が、父親に勘当されて出入り職人の住まいの2階あたりに居候させてもらってて。で、とっくにお昼ごはんも頂いちゃったし、さぁて遊ぶ金はないし、行くところもなし。晩ごはんまで、何しようかな~ってくらいに、退屈。
退屈たって、何もしたくないんじゃないんです。何かしたい気持ちは募るんだけど、すべきことが見当たらないんです。これを称して「無聊(ぶりょう)」。あるいは手持ち無沙汰。「なんかもう、徒然(つれづれ)だなあ」なんつって、エッセイを書きまくったのが吉田兼好さんでした。彼の著作として日本三大随筆とたたえられるのが、ご存じ『徒然草』! あとの二つは『枕草子』と、もうひとつが『窓際のトットちゃん』でしたか。違いますか。すみません。ふざけずに、ちゃんと本の紹介をします。
私のお勧め。『哲学と宗教全史』(出口治明著)です。ドドーンとぶ厚い460ページ。しかもハードカバー。重たい本です。寝ながら読みづらい。わはは。けど、とてつもなく面白いのでお勧めです!
この本は…

「脳研究者で東京大学教授の池谷裕二氏絶賛、宮部みゆき氏推薦、某有名書店員さんが激賞する『哲学と宗教全史』。世界1200都市を訪れ、1万冊超を読破した現代の知の巨人・出口治明APU(立命館アジア太平洋大学)学長が、古代ギリシャから現代まで、100点以上の哲学者・宗教家の肖像を用いて初めて体系的に語る、空前絶後の教養書。巻頭・巻末に古代ギリシャから現代まで、3000年に及ぶ哲学者・宗教家の人物相関図(ジャバラ)付き。」

と、ダイヤモンド社さんのサイトからコピペしましたよ。だから間違いは、ない。
哲学や世界史にまるで明るくない私が猛然と読み進んでしまったのは、先人に対する著者の愛です。それぞれの生まれた時代背景や環境を背負って、「人生」や「宗教」と真摯に向き合うわけです。ときに流されまたは抗い、名をなす哲学者もあれば不遇に終わる才人もある。そして、各人の営みは大きな流れの中にあるという俯瞰の目線がまた魅力的です。ポツリポツリと断片的にしか知らなかった人物や知識が、線になり面へと広がる。読んでいて熱く感じるあの快感を何というのでしょう。知恵熱?
流れを味わいたいので、前回読み終えた箇所からさかのぼってまた読み進める、これを繰り返しました。通読3回分くらいしてそうです。同じ場所でも読むたびに「あー、なるほど」と新しい発見があります。あれ? こちらの理解力が足りないのかな。うーん、やっぱり、また読もう。

『暗殺者』(上下巻)

ロバート・ラドラム、山本光伸訳/新潮文庫

『暗殺者』(上下巻)

ロバート・ラドラム、山本光伸訳/新潮文庫

もう一冊は、オマケ。というか大いに難ありの作品をご紹介します。「難あり」の理由は、後ほど。
ラドラムは1970~90年代にかけて活躍したアメリカの作家です。本作が、マット・デイモン主演のヒット映画『ボーン・アイデンティティー』シリーズの原作といえば、面白さは伝わるでしょうか。でも内容は映画とぜんぜん違います。しかも、小説の方が断然面白い。読んだことのある皆さん、そうですよね!?(おお、大きな拍手が聞こえる…)

「僕はいったい誰なんだ? 嵐の海から瀕死の重傷で救助された男は、いっさいの過去の記憶をなくしていた。残されたわずかな手掛かり――整形手術された顔、コンタクト・レンズ使用痕、頭髪の染色あと、そして身体に埋めこまれていた銀行の口座番号――は、彼を恐ろしい事実へと導いていく。自分の正体を知るための執拗な彼の努力は、彼の命を狙う者たちをも引き寄せることとなった……。」(上巻あらすじより)

この上下巻が、絶版なのです! 大いに難あり!!! 中古を探してでも読む価値ありです。世界的な大ベストセラー作家なのに、日本では評価がイマイチなんでしょうか。憤懣やるかたない気分です。マイ生涯ベストワン!とも言えるこの作品を、どこかの出版社がまた発売してくれないかなあと切望して、これを書いています。ジェイソン・ボーンシリーズだけでなく、ラドラム作品のどれもこれもぜーんぶ出版してくれれば、家に居続けていても全く苦じゃないはずです。まずは集英社インターナショナルさん、そこんとこ、どうなのかな?
どうやら長いトンネルになりそうです。穏やかに健やかに生き延びましょう。皆さん、ご無事でお過ごしください!

北尾トロ( ノンフィクション作家)
選者プロフィール
きたお とろ ノンフィクション作家。1958年、福岡県生まれ。2014年より町中華探検隊を結成。
また移住した長野県松本市で狩猟免許を取得し猟師に。
『裁判長! ここは懲役4年でどうすか』『山の近くで愉快にくらす』『夕陽に赤い町中華』、共著『町中華探検隊がゆく!』など著書多数。
2020年3月より埼玉県日高市在住。

『ナリワイをつくる 人生を盗まれない働き方』

伊藤洋志/ちくま文庫

『ナリワイをつくる 人生を盗まれない働き方』

伊藤洋志/ちくま文庫

新型コロナの感染防止のため自宅で過ごす時間が増えている人が多いと思う。本好きなら、この機会を利用して日頃なかなか読めない大長編小説を読むとか、積読を一気呵成に読破するといった目標を立てたくもなる。でも、リアルな世界が現実離れしているせいか、いまひとつ小説には手が伸びないという人もいるのではないだろうか。
僕もその一人で、何冊か買ってはみたものの全然ページがはかどらない。そこで、本を書棚にしまい、ツイッターで「本日の売り上げ700円です」とつぶやいていた近くのカフェまでコーヒーを飲みに行った。居心地のいい空間が消えてしまっては僕自身が困るからだ。
本書はその店の本棚に刺さっていたものだ。何年か前に買った記憶があるが、内容を忘れているということは、ロクに読みもせず手放してしまったのだろう。でも、なんだか今はこの本に呼ばれている気がして、店主に頼んで借りることにした。というのも、書き出しがいいのだ。

<個人レベルではじめられて、自分の時間と健康をマネーと交換するのではなく、やればやるほど頭と体が鍛えられ、技が身につく仕事を「ナリワイ」(生業)と呼ぶ。これからの時代は、一人が生業を3個以上持っていると面白い。>(「はじめに」より)

自宅にこもる”自粛”がいつまで続くのか。先が見えない状況に置かれてみて、身の回りのさまざまなことをこなす能力の低さにガクゼンとしていた僕に、「ナリワイ」という言葉は新鮮だった。”自粛”の期間は、生き方を見直すのに絶好の機会かもしれない。
家に帰って読み始めると、著者は1979年生まれの元会社員。仙人みたいな暮らしをしている人でも、精神論を説く人でもなく、文章もエッセイ風ですいすい読める。内容も、「副業の紹介」や「小商いで稼ぐハウツー」をまとめたものではない。そういうことにも触れてはいるけれど順番が逆なのだ。
収入が足りない→空いた時間を使って稼げる手段を探そう、ではなく、自分で小さな事業(ナリワイ)を作る→仕事になって稼げることもある、なのである。お金になればいいが、ならなくてもかまわない。なぜなら、書き出しにあるように、ナリワイを持つと頭と体が鍛えられて技も身につくからだ。
ダメ元精神でいろいろやってみて、年間30万円くらい稼げるニッチな仕事をいくつか生み出す。では具体的にどんな仕事があるのか。著者が例に出すのは、自らが実践してきたナリワイの数々だ。「年に2回しか企画しないモンゴル武者修行ツアー」(それ以上やると仕事っぽくなってしまう)、「田舎で土窯パン屋を開く講座」(田舎暮らしを志す人のための実践的ワークショップがあればいいな)、「シェア別荘の運営」(京都が好きだが泊るところがないので仲間を集めて作ってしまおう)……、動機がすごくユルいのが特徴だが、結果として著者はモンゴルの遊牧民生活の実践、パン焼きの技術、家の解体や床張りなど、それなりの収入と合わせて、数々の技術と多士済々な仲間たちとの出会いをモノにしている。

では、著者の技術はどれもプロ顔負けなのか。全然そんなことはないし、そこを目指してもいない。基本的な考えは、なるべくお金をかけない小規模な事業を立ち上げ、手間をかけて育てること。講師に人気があって初回から満員御礼になるワークショップより、最初は参加者0人のワークショップのほうが将来性があるなんて書いてるもんなあ。ナリワイとは、いかにしてビジネスの匂いを避けておもしろいことを形にしていくかの実験。うまくいかなかったらやめて、つぎの事業をはじめればいいのだ。素人が思いつきで始めた事業でお金をいただいてもいいのだろうか、という読者の素朴な疑問に対しても明快な答えが記され、消化不良に陥ることがない。
とはいえ、誰もが著者のような生き方ができるわけじゃない。僕が参考にしたいのは、バックアップという考え方だ。メインの仕事のみの”1本足打法”ではなく、支えのある”タコ足打法”を意識していると、メインがぐらついたときの気の持ちようが違ってくるだろう。

好きなことを仕事にしようと意気込むと身動きが取れなくなりがちなので、嫌なことはしないくらいの気持ちでちょうどいい。お金についても、稼ごうとするとどうしても無理が出やすい。ナリワイをやってるとお金が減らない、ということでもいいのである。
たとえば畑を借りて行う趣味の野菜作りでは収入は1円も得られない。でも、季節ごとの食卓を自力で作った安全な食材でまかなうことができれば、それは支出を抑えながら豊かな食生活をすることでもある。これだって、自分にとってのナリワイといってもいいのではないだろうか。
坂の多い住宅地で犬を飼っているなら、ついでに散歩を請け負えば喜んでくれる高齢者がいるだろう。そこで金銭のやり取りが生じなくても、やっていくうちに頼まれごとが増え、地域からの信頼を得ながらナリワイに育っていく可能性もある。

本書のいいところは、こんなふうに誰でも一つや二つは自分なりのナリワイを考えつけそうなことだ。そうでなくても、いままで普通の働き方をしていると思っていた自分自身を少しだけ疑ってみるのは、この時期だからこそリアルにできることではないだろうか。ナリワイを念頭に置きつつ、いまメインにしている仕事について考える。それは、”自粛”で煮詰まった頭に養分を注ぐ時間になると思う。  

川内有緒(ノンフィクション作家)
選者プロフィール
かわう ちありお ノンフィクション作家。1972年東京都生まれ。日本大学藝術学部卒業後、米国ジョージタウン大学で修士号を取得。
米国企業、日本のシンクタンク、仏の国連機関などに勤務後、フリーのライターに。
『バウルを探して』で新田次郎文学賞、『空をゆく巨人』で開高健ノンフィクション賞受賞。
著書に『パリでメシを食う。』『パリの国連で夢を食う。』『晴れたら空に骨まいて』など。
東京でギャラリー「山小屋」を運営。

『パリ左岸のピアノ工房』

T.E.カーハート、村松潔訳/新潮社クレスト・ブックス

『パリ左岸のピアノ工房』

T.E.カーハート、村松潔訳/新潮社クレスト・ブックス

かつて私がパリに住んでいた頃のことだ。通りの向かい側のアパルトマンに住んでいた男性が、唐突に部屋の窓をひらき、ベランダからオペラの歌曲を披露し始めたことがある。
石畳の通りに響くのびやかなバリトン。
それは街角にかけられた魔法みたいで、私の記憶に深く刻まれた。
ヨーロッパの街角には、いつだって音楽が似合う。いま、コロナで苦しんでいるときでさえそうだ。ロックダウン中のイタリアやスペイン、フランスでは、人々がベランダに楽器を持ち出し、通りのこっちと向こうでセッションしているらしい。羨ましい。苦しい時こそ、一緒に歌い、楽器が奏でられる人たちが。
『パリ左岸のピアノ工房』は、パリ在住のアメリカ人の著者が、家の近所の裏通りで謎めいたピアノ工房と出会うところから始まる。そうして、自分だけの愛すべきピアノを手に入れ、音楽とともに暮らす喜びを発見していく。パリという街が持つおおらかさ、そしてピアノという楽器の奥深さを感じさせる色褪せない名著である。
私自身は残念ながら楽器を弾くことはできない。いや、正確にいえば十代の頃は毎日のようにピアノを弾いていた。しかし、先生のあまりの厳しさにピアノ自体が嫌いになってしまい、今となっては一曲も弾くことができない。しかし、こうして家にいる時間が長くなると、もう一度ピアノを弾いてみたいという思いだけはどんどん募る。そうして、自分の家で練習したあとは、東京の家の窓をあけ放ち、近隣の人たちを驚かせてみたいものだ。

『断片的なものの社会学』

岸政彦/朝日出版社

『断片的なものの社会学』

岸政彦/朝日出版社

とてつもなく奇妙で、とてつもなく魅力的な本である。著者は社会学者の岸政彦氏。
「人生は、断片的なものが集まってできている」
そう書かれている通り、この本には海から打ち上げられた漂流物のような不揃いな断片が寄り集まっている。
それらは、著者が聞き取り調査をするなかで、こぼれてしまったような会話やたまたま焼きついた記憶らしい。一度だけ道ですれ違っただけ男性のことや、道端に捨てられていた猫のこと、長らく会ってない昔の女友達のことなど。一見するとまるで一貫性のない話が万華鏡のように立ち現れる。しかし、読み進めていけばいくほど、その全てに愛おしさと煌めきを感じてしまうのだ。たぶん、まさしくこういう細やかなディテールこそが私たちの人生だからだ。
いま多くの人が悩み、苦しみながらも自分なりの決断を下しながら生きている。外で働くのか、家にこもるのか。お店を開けるのか、閉めるのか。いや、そんな大きな決断じゃなくとも、テレビをつけるのか、消すのか。歩くのか、走るのか。何を買い、何を食べるのか、そして、何を捨てるのか――。
その決断の多くは誰にも注目されないひっそりとしたものだ。ただ、そこにこそ私たちが生きてきた断片がある。読み終わった後は、密やかな幸福感に包まれていることだろう。

山下裕二(美術史家)
選者プロフィール
やました ゆうじ 美術史家。明治学院大学教授。一九五八年、広島県生まれ。
東京大学大学院修了。専門の室町時代の水墨画にとどまらず、縄文から現代美術まで日本美術に関して幅広く研究、評論活動を行っている。
赤瀬川原平との共著『日本美術応援団』、橋本麻里との共著『驚くべき日本美術』ほか著書多数。

『李さん一家/海辺の叙景』

つげ義春/ちくま文庫

『李さん一家/海辺の叙景』

つげ義春/ちくま文庫

美術史家という職業柄、昼間家にいることはほとんどない。少しでも時間があれば、美術館やギャラリーの展覧会に出かけるからだ。本を読んだり執筆するのは、もっぱら夜中。だから、こんな緊急事態で展覧会が軒並み中止・延期になると、昼間の時間を持て余す。
そこで、久しぶりに書棚から引っぱり出したのが、つげ義春のマンガ。いまから44年前、高校2年のときに出会って以来、私は熱烈なつげファンになって、その作品はすべて読んできた。「ねじ式」「紅い花」「長八の宿」「李さん一家」「ゲンセンカン主人」などなど……心に染みる名作は数々あるが、なかでも私がいちばん好きなのが、「海辺の叙景」である。
海辺で出会った若い男女。翌日再び会おうと約束するが、あいにくの土砂降り。もう来ないだろうと思った男性が帰ろうとしたその時、女性が駆け足でやって来る。そして、見開きにどーんと海が描かれる感動的なラストシーン……映画的手法を駆使して描かれた心理劇だ。そのなかで、主人公の男性は「東京のうす暗いアパートでじっとしていては想像もできないくらいいい気分です。こういう気持ちがいつまでもつづくといいんだけど」とつぶやく。
この作品が描かれた1967年当時、つげ自身が「東京のうす暗いアパートでじっとして」いただろうし、つげ作品を読みふけった大学生のころの私も、やはりそうだった。寝苦しい夜、つげ義春のマンガを何百回読んだことだろう。そして、その作品世界に没入することによって、どれほど救われただろう。
つげ義春作品は時代を超えて読み継がれ、いま、小さなブームというべき現象も起きている。つい先だって、『つげ義春日記』(講談社文芸文庫)が復刊されたし、4月からは『つげ義春大全』全22巻(講談社)の刊行もはじまるという。私自身は、2014年に『芸術新潮』の特集「つげ義春 マンガ表現の開拓者」でつげさんと対談し、その内容は『つげ義春 夢と旅の世界』(新潮社・とんぼの本)に再録されてもいるので、こちらもあわせて読んでいただければ幸いである。 

田崎健太(ノンフィクション作家)
選者プロフィール
たざき けんた ノンフィクション作家。1968年、京都市生まれ。
早稲田大学法学部卒業後、小学館『週刊ポスト』編集部などを経てノンフィクション作家。
著書に『偶然完全 勝新太郎伝』『維新漂流 中田宏は何を見たのか』『ザ・キングファーザー』『球童 伊良部秀輝伝』(ミズノスポーツライター賞優秀賞)『真説・長州力 1951-2015』『電通とFIFA サッカーに群がる男たち』『ドライチ ドラフト1位の肖像』『真説・佐山サトル』など。

『科学と非科学 その正体を探る』

中屋敷均/講談社現代新書

『科学と非科学 その正体を探る』

中屋敷均/講談社現代新書

縁あって、昨年から鳥取大学医学部附属病院の広報誌「カニジル」の編集長を務めている。父親は医師ではあったが、ぼく自身は全く無縁の道を歩んできた。ただ、医療を調べるうちに、ノンフィクション、あるいはジャーナリズムと医療の類似性に気がついた。
ノンフィクションは〝ファクト〟、医療は〝エビデンス〟が大切である。そしてこのファクトとエビデンスを元に展開する。
ただし、ぼくはファクト――事実という言葉を使うとき、口の端に含羞がある。日付けや場所、固有名詞以外、証言は全て主観的なものである。故意的な嘘は別にして、思い違いや思い込みもある。別の人物から見た場合、全く違う証言が出て来ることもあるだろう。そのため、事実らしきもの、という表現を使いたいのだ。
ノンフィクション、ジャーナリズムで最も怖いのは、事実だと信じていた証言――ファクトがそうでなかったと後から露見することだ。その〝ファクト〟を前提としていた論理は全て崩れてしまう。その恐れを抱えて、ぼくたちは可能な限りの取材をするのだ。
医学、そして科学も同じである。
神戸大学大学院農学研究科教授の中屋敷均は『科学と非科学 その正体を探る』で、科学の歴史は〈未知領域の中から新たな科学的真実を次々と付け加えられてきた歴史であり、それは挑戦と不確かな仮説に充ちたもの〉であると書く。
科学と非科学の隙間は実は大きい。非科学を検証してきた先人たちが科学を作り上げてきた。そのため、エビデンスがない、非科学であるからと切って捨てる怖さを本物の科学者は持っている。ただし、全くエビデンスを得られる可能性もない〝似非科学〟を受け入れるのも問題である。その上でこう続ける。

〈もし、科学と似非科学の間に境界線が引けるとするなら、それは何を対象としているかではなく、実はそれに関わる人間の姿勢によるのみではないかと私は思う。「非科学的な研究分野」というものが存在するかどうかは私には分からないが、「非科学的態度」というのは明白に存在している。科学的な姿勢とは、根拠となる事象の情報がオープンにされており、誰もが再現性に関する検証が出来ること。また、自由に批判・反論が可能であるといった特徴を持っている〉

大切なのはその研究者が対象に対して、謙虚な姿勢でいるか、どうかである。
この一節を読んだとき、ぼくたちと同じであると思った。
東日本大震災から起因した原発事故、あるいは今回の新型コロナという事象は、予測不可能、そして不明な部分が多かった。その時々で最新の知見を手に入れて、情報をアップデートする必要がある。それまでの自分の考えは本当に正しいのかと、疑う必要がある。しかし、中には自分の価値を高めるために過度に危機を煽る、自分と意見の違う人間を罵るために使うという種類の人間もいる。
中屋敷はこうも書く。

〈社会が科学に求められている最も重要なことの一つは、この世界にあることを分かりやすく「説明すること」である。(中略)
ただ、テレビ番組でそうした視聴者の希望に応える役割を果たしている「科学者」を除けば、そんな分かりやすい回答をすることは、本来科学者には難しいのだ。科学者として誠実であろうとすればするほど、科学の不確実性に言及しない訳にはいかなくなる〉

ぼくもテレビにコメンテーターとして出演したことがある。ワイドショーで求められるのは、簡潔で分かりやすい言葉である。しかし、そこからこぼれ落ちるものは大きい。良心的な取材者であれば、ファクト――事実とされるものでさえ、疑わなければならないことに触れたい。誠実に話そうとすれば、時に曖昧な言葉遣いとなる。それは〝テレビ的〟ではない。そのため、しばしば本当は知らない、あるいは囓っただけの人たちが、重用されることになる。
この一連の新型コロナ騒動が、良書を読み、医学と科学、そしてジャーナリズムについて考える、契機になればと思う。

宮田珠己(作家・エッセイスト)
選者プロフィール
みやた たまき 作家、エッセイスト。1964年 兵庫県生まれ。大阪大学工学部卒業。
サラリーマンを経て『旅の理不尽 アジア悶絶篇』でデビュー。
『東南アジア四次元日記』で、酒飲み書店員大賞を受賞。2017年度から2年間朝日新聞の書評委員を務めた。
『無脊椎水族館』『ニッポン47都道府県正直観光案内』など著書多数。共著に『日本の路線図』など。

『東京焼盡』

内田百閒/中公文庫

『東京焼盡』

内田百閒/中公文庫

空襲で焼けていく東京に住まいながら、その日常を飄々とつづった日記。毎晩のように鳴る空襲警報におびえているのかいないのか、どこか戦争を他人事のように書く強靭な筆致には驚くばかり。恐がりの百閒のことだから、おそらくは書かれているよりずっと不安な日々だったのではないかと思うのだが、それを感じさせないのは筆の力なのか、それともそれが日常となると慣れてしまうのか。コロナ危機の今読むと、勇気がわいてくる。
焼夷弾で家が焼けてしまっても、近所の家の庭に立っていた広さ三畳の掘立小屋を借りて住みつき、そのまま三年間もそこで暮らすという、当時すでに五十六歳だった百閒の飄々と生きるしたたかな姿に、生きてりゃいいんだ生きてりゃ、と背中をどやされたような気がするのだ。

『こぐこぐ自転車』

伊藤礼/平凡社ライブラリー(電子書籍のみ)

『こぐこぐ自転車』

伊藤礼/平凡社ライブラリー(電子書籍のみ)

六十歳をこえてから、自転車に乗り始めた老人の面白おかしい自転車エッセイ。百閒の飄々とした文体に似て、自分を突き放して客観的に描写するところに不安な時代を生きるヒントがある気がする。
なかに「心臓がおかしくなって死ぬかもしれなくなったこと」という掌編があり、もともと著者には心臓の持病があってペースメーカーをしているのだが、自転車旅の途中の宿で脈が速くなり、それがいつまでも収まらないため、みるみる心配になってパニックになっていく様子が書かれている。もちろん最終的には死なないし、読んでいる側はさほどシリアスには感じられないのだが、当人はその瞬間は死の恐怖にとりつかれていたはずで、自分のパニックを笑いに変える、つまりネタにすることで精神のバランスを保つというのは、結構使える技術ではないかと思いながら読んだ。笑いって大切だ。

『驚異と怪異 想像界の生きものたち』

山中 由里子 (編集)、国立民族学博物館 (監修)/河出書房新社

『驚異と怪異 想像界の生きものたち』

山中 由里子 (編集)、国立民族学博物館 (監修)/河出書房新社

昨年、世界中で産み出された想像上の生きものを集め話題になった国立民族学博物館の企画展『驚異と怪異 想像界の生きものたち』の図録。カラー写真が豊富で、パラパラ眺めているだけで時を忘れてしまう。自宅にこもって退屈したときにもってこい。巨人や人魚、カブトガニの精霊に、首長天使、人面有翼の天馬、頭のなる木などなど。世界には得体の知れない生きものがたくさんいるものだ、って全部想像だけど。
そういえば、疫病退散のご利益があるとして、コロナ禍で一躍有名になった妖怪アマビエは、実際にコロナの感染を防げるはずはなく、誰も本気で信じちゃいないけれど、厚労省の公式ツイッターにも登場した。無駄とわかっていても人間は想像の世界に心の拠りどころを求めてしまうものなのだ。本気で頼っているわけではない。けれどそれはある意味、祈りや願いが凝縮した姿と考えることもできる。人間、お金と理屈だけでは生きていけないってことですね。

森永卓郎(獨協大学教授)
選者プロフィール
もりなが たくろう 獨協大学教授。1957年、東京都生まれ。
東京大学経済学部卒業。日本専売公社、日本経済研究センター、経済企画庁総合計画局、、三和総合研究所(現三菱東京UFJリサーチ&コンサルティング)を経て現職。
『年収300万円時代を生き抜く経済学』『消費税は下げられる!』『なぜ日本だけが成長できないのか』など著書多数。読売テレビ 「情報ライブ ミヤネ屋」、TBS「がっちりマンデー」などにレギュラー出演中。

『日本列島回復論 この国で生き続けるために』

井上岳一/新潮選書

『日本列島回復論 この国で生き続けるために』

井上岳一/新潮選書

新型コロナウイルスの感染爆発は、これまで30年にわたって進んできたグローバル資本主義に急ブレーキをかけている。
世界の9割の国が何らかの出入国制限をかけ、日本も米中韓や欧州の大部分からの入国を拒否し、日本人の海外渡航に関しても強い自粛要請が出されている。
人の往来だけではない。グローバル資本主義の基本である「世界で一番安いところから調達する」という仕組みも、部品不足で国内生産が止まるという形で破綻している。また、国民を悩ませ続けているマスク不足も、中国にマスク生産の多くを依存してきたからこそ生じた問題だ。
さらに、重要なことは、グローバル資本主義が世界中で地方を衰退させ、大都市集中をもたらしてきたことだ。そして新型コロナウイルスは、ニューヨーク、パリ、東京といった大都市を狙い撃ちにしているのだ。
新型コロナウイルスが終息したら、私は世界が変わると思っている。グローバル資本主義のなかで、忙しく歯車のように働いていた人たちが、もっと人間らしい生活、安全で安心な生活を求めるように変わるのだ。
そうした新しいライフスタイルを模索する人たちにお勧めするのが、井上岳一『日本列島回復論 この国で生き続けるために』だ。
いま若者を中心に、地方移住の機運が高まっている。資本主義に疲れ果てているからだ。若者たちは、「山水郷」を目指して動き始めている。しかも、いま人気なのは、田舎らしい田舎だ。中山間地域のなかでも、人口が社会増となる地域も増えていると本書は指摘する。
都会に疲れた若者はつながりを求めていて、山水郷にも彼らを受け入れる態勢が整ってきた。さらに交通インフラや通信網の進化は、山水郷と都会の距離を一気に縮めた。山水郷での生活が身近になったのだ。
ただ、山水郷には、濃い人間関係があり、生業以外に共同体を維持するための「仕事」もしなければならない。若くて体力があり、柔軟性もある若者なら問題ないのかもしれないが、中高年がいきなり山水郷に行くのは難しいかもしれない。
実は、私は都心から一時間半の都会と田舎の中間、トカイナカで30年以上暮らしている。一昨年から畑を借りて、野菜作りも始めた。山水郷ほどではないが、トカイナカデでも東京と比べると、自然も豊かで、空気も水もおいしい。人間関係も、ほどほどで快適だ。
私は、根性がないので山水郷暮らしはちょっと無理だと思っているのだが、本書が描くライフスタイルは、グローバル資本主義への究極のアンチテーゼだ。だから、ここを基準に、どこまでだったら自分がグローバル資本主義と距離を置けるのか判断して欲しい。その意味で、本書は、コロナウイルス感染症が終息した後のライフスタイルを模索するときの大切な道標になると思う。

内田樹(武道家・翻訳家)
選者プロフィール
うちだ たつる
武道家(合気道7段)。道場兼能舞台兼私塾「凱風館」館長。神戸女学院大学名誉教授。翻訳家。
1950年、東京都生まれ。東京大学文学部仏文科卒業。東京都立大学大学院人文科学研究科修士課程修了。専門はフランス現代思想、武道論、教育論、映画論など。著書に『ためらいの倫理学』『レヴィナスと愛の現象学』『ぼくの住まい論』『日本の身体』『街場の戦争論』など多数。

『ペスト』

アルベール・カミュ、宮崎 嶺雄訳/新潮文庫

『ペスト』

アルベール・カミュ、宮崎 嶺雄訳/新潮文庫

武漢でウィルスの感染爆発が始まって、都市封鎖になったときに『ペスト』のことを思い出した。194※年にアルジェリアのオランという街がペストで都市封鎖になったという架空の物語である。
私がこの小説を手に取ったのはもう50年も前の高校生の頃のことだが、その時は、ここで言う「ペスト」とは「ナチズム」のことであり、オランは「ドイツ占領下のフランス」のことであり、ペストと戦う市民たちの自主的な組織である「保健隊」は「レジスタンス」のことであるという説明がなされていた。私はその説明をそのまま信じた。
小説の出版は戦争が終わった後の1947年だが、草稿が書かれたのは1939年から43年にかけてのドイツ占領期であった。カミュ自身も当時レジスタンスに加わっていたので、「3人に1人は死ぬ覚悟」でペストと戦う保健隊員たちに実際のレジスタンスの闘士たちを重ねてみることはそれほど的外れではなかったと思う。
とはいえ、『ペスト』に描かれている人物や状況や行動を、すべて政治史的文脈に落とし込んで「解読」してしまうのは、ちょっともったいないような気がする。もちろん、そういう読み方をしてもいいのだけれど、もっと一般的な物語として読んでもよいのではないかという気がする。ある不条理な監禁状態のうちに偶然投じられてしまった人間が、その圧倒的な無意味さの中で、死の不意の接近を感じながら、それでも「意味のある生き方」をしようと全力を尽くす…という物語として読むこともできると思うし、そういうふうに読んだ方が、少なくとも私は「身につまされる」。それこそまさに、今われわれ全員が投じられている人間的状況そのものだからだ。
物語の中で、ペスト禍は人々にさまざまな生き方の選択を強いる。保身と利己主義に走るものがいる、悪疫の到来を神の罰だと「合理的に」解釈するものがいる、ペストをビジネスチャンスとみなすものがいる、献身的にペストと戦うものがいる…その人々のうちでカミュが最も深い愛情をこめて描いたのは、グランという人物である。
役所の下級職員としてつつましく暮らす初老の独身男で、未完の小説の終わりのない推敲を生き甲斐とするこの男をカミュは本来の意味での「英雄」だとみなす。その相貌をカミュはこんなふうに描いている。
「グランは保健隊を動かしていたもの静かな美徳の生きた体現者だった。彼はいつものような善良さを以て、逡巡なく『はい』と答えた。彼は自分にできる仕事があるなら、どんな雑用でも役に立ちたいと言った。(…)『こんなの、たいしたことないですよ。なにしろペストなんですから、身を護らなくちゃならないのは当たり前のことです。何ごともこんなふうに簡単だといいんですけどね!』」(Albert Camus, La Peste, in “Théâtre, Récits, Nouvelles“, Gallimard, 1962, p.1328)
ペストが終息すると、グランは当然のように再び小役人の面白みのない日常に戻ってゆく。
『ペスト』の2人の主人公、医師リウーと旅人タルーはどちらもアルベール・カミュのアルターエゴであるので、グランよりはずっと「英雄的」である。彼らは日常生活を犠牲にして、ペストと戦い、苦しみ、もがき、そしてそこから省察を引き出す。例えば、こんなことを。
「タルーは彼の言葉によれば勝負に敗れた。一方、リウーは何を勝ち得たのか。ペストを知ったこと、いつかそれを思い出すこと、友情を知ったこと、いつかそれを思い出すこと、愛情を知ったこと、いつかそれを思い出すこと、それだけだ。人間がペストと生の戦いから勝ち得たのは、経験と記憶だ。おそらくタルーはそれを勝負に勝つことと呼んでいたのだ。」(Ibid., p.1459)
哲学的な省察だ。その通りだろうと思う。
私たちの中の何人かは、パンデミックが終息した後に、冷静な気分に戻れたら、それに似たことを思うかも知れない。でも、おそらく大多数の人は、防疫の最前線に立っていた人たちも含めて、グランのように黙って日常生活に戻るだろう。そして、しばらくしたら自分が何を経験したのか、忘れてしまうだろう。
パンデミックを通過するときに人々はそれぞれの仕方で、それぞれの経験をする。病む人もいるし、死ぬ人もいるし、たいせつなものを失う人もいるし、無事に災禍を逃れる人もいる。何か学ぶ人もいるし、何も学ばない人もいる。良いも悪いもなく、そういうものだ。
私の場合は、『ペスト』の一行一行がこれほど身にしみたことはかつてなかった。ある文学作品の真価を改めて思い知らされたということは、この疫病が私にもたらした例外的な「よきこと」だったと思う。

清水克行(歴史家)
選者プロフィール
しみずかつゆき 歴史家。明治大学商学部教授。専門は日本中世史。
1971年、東京都生まれ。2016年~17年、讀賣新聞読書委員。著書に『喧嘩両成敗の誕生』、『日本神判史』、『耳鼻削ぎの日本史』、『戦国大名と分国法』など。ノンフィクション作家高野秀行との共著に『世界の辺境とハードボイルド室町時代』『辺境の怪書、歴史の驚書、ハードボイルド読書合戦』などがある。NHK『日本人のおなまえっ!』などの番組監修やコメンテーターも務める。

『銃・病原菌・鉄(上・下)』

ジャレド・ダイアモンド、倉骨彰訳/草思社文庫

『銃・病原菌・鉄(上・下)』

ジャレド・ダイアモンド、倉骨彰訳/草思社文庫

2000年から2009年にかけての「ゼロ年代の50冊」(朝日新聞)の第1位にも選ばれた、言わずと知れた名著である。
なぜヨーロッパだけが世界制覇に成功したのか? この人類史上最大の難問を解決するべく、著者のダイアモンド氏は様々な科学的なデータを駆使して考察を深めていく。その結果、行きついた答えが「銃」と「病原菌」と「鉄」。この三つを手に入れることに地政学的に最も有利であったことが、その後のヨーロッパの覇権を確立させる最大の要因となったのだ、というのが本書の骨子である。
さて、日本国民全体が新型コロナ・ウィルスの恐怖にさらされている昨今、この著作で最も目を引くのは、「銃・病原菌・鉄」のうち、当然、二つめの「病原菌」だろう。ヨーロッパを発祥地とする数々の病原菌は新大陸の人々を死地に追い込み、その犠牲者数は人類史における戦争による死者の数を上まわるという。病原菌こそは、ヨーロッパ文明がもたらした史上最悪の災厄だったと言っていいだろう。
麻疹(はしか)が牛疫(ぎゅうえき)のウィルスに起源をもち、インフルエンザが豚やアヒルに起源をもつと言われるように、多くの病原菌は人間と動物の接触のなかで生まれていったとされている。つまり、病原菌は地球上どこにでも均一に生まれるものではなく、まずは動物をいちはやく家畜化することに成功した土地から広まるという特性をもっている(今回の新型コロナは、家畜ではないがコウモリ由来という説が有力である)。また、病原菌が広まるには一定以上の人口の密集がなくてはならない。動物の家畜化と人口過密、つまり文明化していることが、病原菌発生の条件なのである。その意味では、前近代社会においては病原菌は〈文明〉から〈辺境〉へ、というベクトルで広まっていく性質をもっている。
ダイアモンド氏の著作では、日本史についてはほとんど言及するところはないが、この見立ては日本の歴史にも、ある程度あてはまる。古代以来、日本社会では「疫病は大陸からやってくる」という認識をもっており、事実として、日本史上の大きな疫病はほとんど中国や朝鮮半島経由でやってきていた。
平安時代も終わりの西暦1171年、中国から三匹の羊がもたらされた。この珍しい生き物は、多くの人々にもてはやされ、ついには後白河上皇の御所にまで参上し、叡覧(えいらん)に供された。ところが、その直後、国内で疫病が蔓延する。人々はこれを羊が持ち込んだ病と考え、この疫病は「羊の病」と呼ばれることになる。それまで羊をもてはやした人々は、一転して、これに恐怖し、羊は中国に追い返されてしまったという(『百練抄(ひゃくれんしょう)』)。
また、それから8年後、またも新たな疫病が流行する。このときは、中国から銭の輸入が活発化していた。当時、日本政府はみずから貨幣を鋳造せず、中国銭を通貨として大量に輸入していたのである。そのため、人々は、こんどはこの疫病を「銭の病」と呼んでいる(前掲『百練抄』)。疫病は、大陸からの先進文物とともに渡来するということを、当時の人々も皮膚感覚で認識していた証しだろう(なお「銭の病」については、疫病ではなくインフレーションを意味するという説もある)。
南北朝時代ともなると、こうした認識はかなり明確なものとなる。1345年、京都では咳をともなう疫病が流行し、光厳(こうごん)上皇までもがこれを患う事態となっている。このとき公家の一人は、その日記に「中国への貿易船が帰ってきたことで、この疫病が流行った」という世間の噂を書き留めている(『園太暦(えんたいりゃく)』)。すでに疫病流行のメカニズムは、当時の人々に理解されるようになっていたのである。
古くは飛鳥時代、仏教が初めて伝来したときも、その直後に疫病が流行している。また、奈良時代には天然痘が流行して、時の実力者だった藤原武智麻呂(ふじわらのむちまろ)はじめ藤原氏の四兄弟が次々と命を落としているが、これも遣新羅使(けんしらぎし)などによる大陸交流の活発化と関連があるとされている。さすがに新大陸とは違ってユーラシア大陸に接していることもあり、日本の場合は、ある日突然現れた外国人が持ち込んだ感染症によって、日本の人口の何分の一が失われた、などという劇症型感染の話は伝わっていない。しかし、ダイアモンド氏の著作に触れたり、現今のコロナ禍を目撃してしまうと、日本列島も「世界史」と繋がっているという印象を改めて強くもつ。ユーラシアの〈辺境〉である日本は、感染症もつねに受け手の側だったのである。
ただ、歴史の教訓として、ひとつ私たちが心しておかねばならないことがある。それは、こうして多くの感染症が国土の外部からもたられるという地政学的な環境のために、日本史上では、しばしば感染症の問題が外国に対する排外主義的な言動に結び付きやすいという性向があったことだ。有名なところでは、仏教伝来直後の疫病流行では、仏教反対派が仏教と疫病を結び付けて勢いづき、寺院や仏像の破壊活動に乗り出している。新たな疫病に「羊の病」や「銭の病」という名づけを行う中世の人々の心にも同様なものがあったに違いない。感染症は目に見えないだけに、素朴な恐怖感情を刺激しやすい。すでにWHOによって禁じられているにもかかわらず、新型コロナ・ウィルスに発生地の名前を冠することを頑なに主張する一部の人々の言動を思えば、これは決して過去の話とばかりは言えないだろう。科学に学び、歴史に学び、感染症を「正しく恐れる」ということが、いまほど求められている時はない。

高野秀行(ノンフィクション作家)
選者プロフィール
たかの ひでゆき ノンフィクション作家。
1966年、東京都生まれ。『幻獣ムベンベを追え』でデビュー。『ワセダ三畳青春記』で酒飲み書店員大賞を、『謎の独立国家ソマリランド』で講談社ノンフィクション賞、梅棹忠夫・山と探検文学賞を受賞。著書に『謎のアジア納豆』『辺境メシ』など多数。
清水克行との共著に『世界の辺境とハードボイルド室町時代』『辺境の怪書、歴史の驚書、ハードボイルド読書合戦』など。

『わたしのマトカ』

片桐はいり/幻冬舎文庫

『わたしのマトカ』

片桐はいり/幻冬舎文庫

本来なら今頃(3月末〜4月末)は中東で取材していたはずだが、コロナ禍のため、中止を余儀なくされてしまった。そのために入念な準備をしていたわけだし、取材に行けなければ原稿も書けない。いや、中東どころか、今後、いつ海外取材に行けるか見当もつかない。もしかしたら、何年もどこへも行けないかもしれない。私の辺境作家人生はお先真っ暗……なのだが、意外にこの状況は悪くない。
この7、8年くらい、本当に忙しかった。海外に取材に行っては原稿を書き、マスコミの取材を受け、トークイベントや講演会、対談を行い、知人友人と飲み会に明け暮れていた。いつも手帳には予定がぎっしり書かれていた。どれも好きでやっていたことなので何も不満はないのだけれど、何か歯車に巻き込まれたようなせわしなさだったのも事実だ。
それが今、手帳の予定欄は真っ白である。依然として原稿の仕事はあるものの、ようやく歯車が止まり、一息つけた気分だ。自分をリセットするのにこの空白期間はちょうどいい。家でゆっくり好きな本を読む時間も増えた。
意外かもしれないが、私は旅の本をめったに読まない。自分がしょっちゅう旅をしているので、他人の旅に興味がもてないのかもしれない。「人の話を読むより自分が行った方が早い」なんて、バカなことを考えてしまったりもする。
その点、旅に行けない今、旅の本が読みたくなる。それも現在の私が求めているのは、エキサイティングな冒険譚ではなく、空白期間にふさわしい、ゆるやかな「旅情」である。
最近読んだのは片桐はいりさんの『わたしのマトカ』と『グアテマラの弟』。いずれも数年前に読んだのだが今まさに本棚でキラキラ光っているのに気づいたのだ。
『わたしのマトカ』は著者が映画のロケでフィンランドに1ヶ月滞在した話である。「マトカ」とはフィンランド語で「旅」を意味するという。片桐さんは感性も文章も愉快だ。
フィンランド人が大好きなサルミアッキという飴を「タイヤとゴムのホースに塩と砂糖をまぶしてかじったら、もしかしたらこんな味がするのかもしれない。未だかつて味わったことのないまずさだ」とケチョンケチョンにけなしたと思いきや、「あまりに得体の知れないものに出会うと、喜びすら湧きあがる。狭く思えた地球が果てしなく広く感じられる」と反転させる。
フィンランドにはサルミアッキ味のウォッカもある。片桐さんはその「黒く濃く激しいお酒」にも挑戦、「まずいうえにアルコールが強い。ブスなうえに乱暴だ、と言っているみたいだ」と嘆きつつ、「だけどもし、ブスだけと乱暴な女と懇ろになったら、逆に深みにはまるのかもしれない」とここでも見事な切り返し。いいねえ、この感じ。
片桐さんは旺盛な好奇心で、映画撮影の合間を縫って、フィンランドの町を歩き回る。夏の北欧の太陽、青い空、爽やかな風を背景に、彼女は路面電車の車掌さんと緊迫した対決(?)を行い、青空市場では片言のフィンランド語を駆使して新鮮な野菜を買う。週末のディスコに乗り込んだら木訥なフィンランドの若者たちから謎のアタック(フィンランドの産業について耳元で延々と語ってきかされるなど)を受けたりもする。
そういうフィンランドの旅のエピソードの中に、これまで彼女が旅してきた香港、カンボジア、日本各地などの思い出がミルフィーユのように織り込まれ、エキゾチスムの合間にノスタルジーの甘い香りが漂う。「愉快七割、しみじみ三割」程度の絶妙なさじ加減。私の理想とする旅情だ。

『グアテマラの弟』

片桐はいり/幻冬舎文庫

『グアテマラの弟』

片桐はいり/幻冬舎文庫

『グアテマラの弟』は、文字通り、中米グアテマラに移住した弟さん一家を訪ねて、現地の町を訪れる旅の話だが、こちらは亡くなった食い道楽のお父さん、年を取った働き者のお母さん、そして長年没交渉だった弟との一家4人の在りし日のエピソードを織り交ぜた、家族味の旅ミルフィーユ。こちらも愉快としみじみが心地よく交錯する。決して豊かではないが、食事と昼寝に情熱を燃やすグアテマラ人の生き方にも心が和む。
精神の健康を取り戻すためにもお勧めの片桐はいり旅物語二作である。

布施英利(美術批評家・解剖学者・文筆家)
選者プロフィール
ふせ ひでと 美術批評家、解剖学者、文筆家。
1960年、群馬県生まれ。東京藝術大学美術学部卒業。同大学院美術研究科博士課程修了。学術博士。
東京大学医学部助手(解剖学)などを経て、本格的に批評活動に入る。『死体を探せ! バーチャル・リアリティ時代の死体』『構図がわかれば絵画がわかる』『ヌードがわかれば美術がわかる』『洞窟壁画を旅して ヒトの絵画の四万年』など著書多数。

『尾崎放哉句集』

池内紀編/岩波文庫

『尾崎放哉句集』

池内紀編/岩波文庫

コロナ禍が我々を見舞ったことといえば、経済的苦境(=貧乏)、外出の自粛(=孤独)、そしてもちろん病(=身体的苦痛)などだ。
このたび、「コロナ、ウイルスに負けない本を挙げる」というアンケートを編集部からご連絡いただき、まず頭に浮かんだのが、「咳をしても一人」の作品などで知られる尾崎放哉の句集だった。尾崎放哉は、東京帝大法科を卒業し銀行につとめ出世したエリートだった。しかし、それは彼の前半生のことで、後半生には仕事を失くし、妻と別居して、最後は瀬戸内海の島の寺の番をしながら生涯を終えた。ある意味、悲惨な生涯だった。その尾崎は、若い頃から俳句に取り組み、とくに五・七・五の俳句の定型にとらわれない「自由律俳句」の作品を多く残した。その最晩年の句の一つが「咳をしても一人」だった。コロナに苦しんでいる我々の姿を象徴しているような作品でもある。
このたび、アンケートに答えるために、改めて『尾崎放哉句集』(池内紀編、岩波文庫)を読んでみた。制作年順に並んでいて、若い頃の自由律以前の定型句の作品から始まる。「山茶花や犬ころ死んで庭淋し」など、晩年の「咳をしても一人」に通じるような詩境の句もある。以下、自由律の作品で心に残ったものを挙げてみる。

障子しめきつて淋しさをみたす
心をまとめる鉛筆とがらす
なんにもない机の引き出しをあけて見る
爪切ったゆびが十本ある

など、部屋のなかに閉じ込められ、やることもなく、お金の余裕もない現代の気分が、昔の詩であるが、そこに言葉として結晶している。文学や芸術というものの力は、いま自分が置かれている苦境が、実は今の自分だけのものではなく、かつても、どこにでもあったものだという「普遍」に気づかせてくれるのも、その一つの効能だ。そこから「生きよう」という力も湧いてくる。さらにいくつか挙げよう。

ひょいと呑んだ茶碗の茶が冷たかった
すぐ死ぬくせにうるさい蠅だ
生卵子こつくり呑んだ

どれも、どうということない出来事を言葉にしたものである。しかしこういう作品に身を浸していると、こちらの中の、それまで鈍っていた感性が、繊細に今の自分の周りの光景に眼差しを送り、些細な小さなことが、美しさや輝きをもって見えてくる、そんな自身の変容を感じる。芸術によって変わったのは、ただ世界への小さな「見方」だけなのかもしれない。しかし、見方が変わるだけで、世界が、自身が変わるのも事実である。そんなふうにして「ウイルスに負けない」自分を、静かに育てるのも悪くない。

中野香織(服飾史家)
選者プロフィール
なかの かおり 作家・服飾史家。 www.kaori-nakano.com
東京大学文学部卒業後、教養学部(イギリス科)に学士入学、卒業。東京大学大学院博士課程単位取得満期退学。ケンブリッジ大学客員研究員、明治大学国際日本学部特任教授などを歴任。
著書に『「イノベーター」で読む アパレル全史』『ロイヤルスタイル 英国王室ファッション史』『紳士の名品50』など。日本経済新聞、読売新聞など多媒体で連載記事を執筆。企業数社の顧問も務める。

『ジョジョの奇妙な冒険』

荒木飛呂彦/集英社

『ジョジョの奇妙な冒険』

荒木飛呂彦/集英社

すべてのストーリーが面白いのですが、とりわけおすすめがパート3のスターダストクルセイダーズの巻。
5人の屈強でセクシーなスタンド(幽波紋)使いが一人の女性を時間内に救うために地球上を旅するのですが、その過程で出会う敵が、次第にまがまがしく、おどろおどろしくなっていく。
これ以上どんなおそろしいことが起きるのかと身構えながらひとつひとつ不条理な難関をクリアしていく過程に、学びが多い。
予測がつかない外敵に立ち向かうための腹のすわり方が、「伝染する」ような錯覚を得られる。

『完訳釣魚大全Ⅰ』

アイザック・ウォルトン、飯田操訳/平凡社ライブラリー

『完訳釣魚大全Ⅰ』

アイザック・ウォルトン、飯田操訳/平凡社ライブラリー

350年以上も読み継がれる、釣りの本。
川魚の釣りの実践本でありながら、故事や詩や哲学の教養も散りばめられる。しかしこの本の底力はその「内容」だけにあるのではない。
国王の首が斬られたピューリタン革命のさなかに書かれているということです。外部の動乱に、自分が騒いでも何もできないのだとしたら、であれば、Study to be quiet. (静かにしていることを学べ)というわけで、平和このうえない釣りの話をしながら詩や哲学を語る。
この態度、Study to be quiet こそ、まさにコロナの時代の今、身に着けたい態度です。

『コレラの時代の愛』

ガブリエル・ガルシア=マルケス、木村榮一訳/新潮社

『コレラの時代の愛』

ガブリエル・ガルシア=マルケス、木村榮一訳/新潮社

19世紀末から20世紀はじめにかけて、内線に次ぐ内戦、コレラの蔓延で秩序が崩壊していった時代に生きた、一人の男の物語。
主人公は17歳の時に恋をした女性を51年と9か月と4日、思い続け、ついに70歳を超えて、結ばれる。その間、独身なのだけれど600人の女性と関係をもったりして、純愛なのか偏執なのかよくわからない複雑なところも一筋縄でいかず、人間の不思議な深淵を考えさせられる。
ソーシャルディスタンスを求められるコロナの時代には接触もままならない。そんな時代の愛はどうあるべきなのか、どうなっていくのか、コレラの時代の愛を合わせ鏡にしながら見届けたい。

金原瑞人(翻訳家)
選者プロフィール
かねはら みずひと 翻訳家。法政大学教授。
1954年岡山県生まれ。翻訳書籍の面白さを紹介するブックレット「BOOKMARK」編集・発行人。
『アティカス、冒険と人生をくれた犬』(井上里との共訳)など手がけた翻訳書は、550冊以上にのぼる。編著に『翻訳者による海外文学ブックガイド BOOKMARK』など。国内外のヤングアダルト作品に造詣が深く、書評や解説なども多数手がける。

『マレ・サカチのたったひとつの贈物』

王城夕紀/中公文庫

『マレ・サカチのたったひとつの贈物』

王城夕紀/中公文庫

東洋を舞台にしたファンタジー『天盆』でデビューした王城夕紀の2作目が、これ。
文庫の解説を書いたことがあるので、それを少し引用しながら紹介してみたい。

全世界、全地球を舞台にした近未来小説。主人公は、マレ・サカチ、坂知稀。彼女は世界中を飛び回っているのだが、好きで旅行をしているのではない。ある場所からいきなり消えて、ある場所にいきなり姿を現す「量子病」に冒され、本人の意志にまったく関係なく、ランダムに世界のあちこちに出没するのだ。
そのうえ、この作品の舞台は資本主義を沸点寸前まで煮詰めたような世界。超裕福層と超貧困層がぶつかり合うなか、連鎖的な企業破綻と激しいデモがくり返し起こり、最初のワールドダウンはなんとか食い止められたものの、セカンド・ワールドダウンが始まる。いよいよテロと戦争の違いが消滅していく。
主人公、マレ・サカチの目に映る、めまぐるしく変わる危機的な世界。それが細切れにされ、切り詰めた文章で、鮮やかに描かれていく。あるときはニュースの解説ふうに、あるときは簡潔に数行で、あるときはラップの歌詞のように、あるときは独り言のように。
この作品のなかで最も気に入っている部分は、88章の野戦病院における中年の医師と若い女医の会話だ。

「ウィルスの進化は、手ごわいよ……つまり、同一に抑制することと、突然変異に拡散することがセットになっているシステムなんだ。これはね、手ごわいよ。奴らは偶然まで使って攻めてくる。俺たちはそれを全部迎撃しなきゃいけない。圧倒的不利だ」この言葉に、女医は「じゃあ、さっさと国に帰れ」と言い放って背を向ける。残された中年医師は、せっかちだなあと顔をしかめ、こういう。「俺は負け戦が好きなんだよ。負け戦こそ、本当の戦だ。だから医者になったんじゃないか」

野崎歓(フランス文学者)
選者プロフィール
のざき かん フランス文学者。
1959年、新潟県生まれ。東京大学文学部仏文科卒業。同大学院博士課程中退。東京大学文学部教授を経て、放送大学教養学部教授。
『ジャン・ルノワール 越境する映画』(サントリー学芸賞)、自身の子育て体験を綴った『赤ちゃん教育』(講談社エッセイ賞)、『異邦の香り ネルヴァル『東方紀行』論』(読売文学賞)『水の匂いがするようだ 井伏鱒二のほうへ』(角川財団学芸賞)など著書・訳書多数。

『デカメロン』

ボッカッチョ、平川祐弘訳/河出文庫など

『デカメロン』

ボッカッチョ、平川祐弘訳/河出文庫など

いまわれわれは未曽有の事態の真っただ中にいる――というのが実感だが、しかし人類が歴史上、何度も何度も伝染病の恐怖に直面し、大変な被害にあいながら、そのつど打ち克って現在に至っていることもまた確かなのだ。
人類はしぶとく生き延びてきた。しかも後世に、はるかな時を隔てて生き続ける本をプレゼントしてくれたではないか。
そこには危難に屈しない人間の姿が刻まれている。たとえば『デカメロン』だ。
黒死病の大流行に襲われた14世紀のイタリア。フィレンツェ市中では地獄図絵が繰り広げられ、「尊ばれるべき法の威信は、宗教界においても俗界においても、ほとんどみな地に落ちて、顧みられなくなっていた」。そんななか、高貴な10人の男女は一見、そうした状況とまったく無関係な物語を互いに語り合い、興じ合う。苦難の時にも精神の楽園を守り抜く姿に感嘆する。

『ガラン版 千一夜物語』

西尾哲夫訳/岩波書店

『ガラン版 千一夜物語』

西尾哲夫訳/岩波書店

ペルシャのシャフリヤール王は女性不信に凝り固まって、夜ごと新たな花嫁を迎えては、翌朝には命を奪う。
疫病さながらの被害をもたらすその非道な王に、自ら志願して嫁いだシェヘラザードは、夜な夜な「おもしろいお話」をつむぎ出すことで処刑の脅威に立ち向かう。人間にとって物語とは死への抵抗だったのだ。
『千一夜物語』を一躍、世界文学の重要作とした18世紀、アントワーヌ・ガランによる仏訳の初の日本語完訳版。達意の訳文に箱入りの美しい造本も嬉しく、ぜいたくな読書の時間に浸らせてくれる。

『雪』

オルハン・パムク、宮下遼訳/ハヤカワepi文庫

『雪』

オルハン・パムク、宮下遼訳/ハヤカワepi文庫

現代文学からこの長編を。
雪に降りこめられ交通が遮断されたトルコの都市を舞台に、主人公は「ペストのように伝染」する自殺連鎖の謎を追う。
そこに浮き彫りになるのは、イスラム原理主義の脅威にゆるがされる共同体の苦しみだ。
カミュの『ペスト』を下敷きにしながら、パムクもまた、出口の見えない状況に対し物語の力であらがおうとする。

石戸諭(ノンフィクションライター)
選者プロフィール
いしど さとる ノンフィクションライター。
1984年生まれ、東京都出身。立命館大学卒業後、毎日新聞記者などを経て2018年に独立。
著書『リスクと生きる、死者と生きる』が読売新聞「二〇一七年の三冊」に選出される。2019年より東京大学非常勤講師。

『ペストの記憶』

ダニエル・デフォー、武田将明訳/研究社

『ペストの記憶』

ダニエル・デフォー、武田将明訳/研究社

『ロビンソン・クルーソー』で知られるデフォーが、1665年にロンドンを襲ったペスト禍をテーマに書き上げた一冊。語り手をおいた小説という形式をとっているが、文章の調子はノンフィクション、あるいはルポルタージュのそれに近い。中公文庫で『ペスト』というタイトルで文庫化されている。私が読んだのは、最新訳のほう。
翻訳した武田が指摘するように、当時のロンドンで進んでいた市民による、市民のための統治は、ときに残酷なまでの隔離政策を決行し、表面的な秩序を維持するために不都合なものは隠蔽する。
印象に残ったのは、経済の描写だ。ここでも「ペストそのものではなく、ペストが引き起こした災いのせいで」絶命する人々が出てくるのだ。「空腹と苦境に襲われ、全てが欠乏するなか亡くなったのだ。住む家もなく、金もなく、友もなく、パンを得る術もなく、パンを施す人もなかった」

『経済政策で人は死ぬか? 公衆衛生学から見た不況対策』

デヴィッド・スタックラー、サンジェイ・バス、橘明美、臼井美子訳/草思社

『経済政策で人は死ぬか? 公衆衛生学から見た不況対策』

デヴィッド・スタックラー、サンジェイ・バス、橘明美、臼井美子訳/草思社

この間、取材やら報道番組の場で公衆衛生、感染症対策の専門家と会う機会が多かった。彼らと話しながら、引っ掛かりを覚えたのは経済に対する関心の薄さだった。海外には公衆衛生、疫学の専門家がきちんと経済政策と人の健康について分析を施している例があるではないか、と。
それがこの本だ。デヴィッド・スタックラーは公衆衛生の専門家であり、サンジェイ・バスは医師で医学博士号を持っている。
彼らの結論は極めてシンプルだ。経済政策の失敗もまた人の命に直結する。特に、不況下で財政緊縮策を取った場合、財政刺激策を取るよりも死者が増大するというものだ。
日本の政策は事業規模こそ大きいが、実際にどのくらい国民が手にできるかという一番大切な問題は置き去りにされている。細かい条件をいくつもつけて、不公平感を募らせるものになっているというのが、私の見立てだ。感染症対策は経済を直撃する。だからこそ、結果的に緊縮になっては意味がないのだ。

倉谷滋(形態進化生物学者)
選者プロフィール
くらたに しげる 形態進化生物学者、国立研究開発法人理化学研究所 開拓研究本部主任研究員。
1958年、大阪府生まれ。京都大学大学院理学研究科修了、理学博士。琉球大学医学部助手、ベイラー医科大学助教授などを経て、1994年、熊本大学医学部助教授。2002年より理化学研究所チームリーダー、2005年、同グループディレクター。
著書に、『分節幻想』『怪獣生物学入門』『進化する形』などがある。

『ヴァンパイアと屍体:死と埋葬のフォークロア』

ポール・バーバー、野村美紀子訳/工作舎

『ヴァンパイアと屍体:死と埋葬のフォークロア』

ポール・バーバー、野村美紀子訳/工作舎

1681年、哲学者ライプニッツがペスト対策のために記したという『エルンスト・アウグスト公爵のための覚書』が先日、工作舎ウェブサイトで期間限定公開された(※11月14日まで公開)。それを読むと、当時の状況が驚くほど現在の新型コロナウィルス禍と似ていたことが分かる。「見えない敵」に対する防御の技術、人情を犠牲にしても押し通さなければならない論理。蔓延阻止のための社会学的テクノロジーの基礎が、すでにしてかの天才の頭脳の中に完成していたことに驚かされる。

人類史は疫病との戦いの連続であった。いや、我々の祖先がまだ人類ですらなかった頃から病気はずっと我々とともにあった。この脅威に対し、社会学と科学のテクノロジーが応戦するようになったこと自体ごく最近のことなのだ。ポール・バーバー著『ヴァンパイアと屍体:死と埋葬のフォークロア』は、18世紀までの吸血鬼伝説が、当時における疫病の蔓延と、非科学的な「死」の認識に由来していたことを明らかにする。

『解剖医ジョン・ハンターの数奇な生涯』

ウェンディ・ムーア、矢野真千子訳/河出文庫

『解剖医ジョン・ハンターの数奇な生涯』

ウェンディ・ムーア、矢野真千子訳/河出文庫

当時、病院は「死ぬためにゆく場所」であった。病人を一カ所に集めておかないと、健常な人びとまでが冒されてしまう。それが、「病気を治す場所」に変じるうえでの最大の功績者は、18世紀末期に活躍した稀代の外科医、ジョン・ハンター。その活躍は、ウェンディ・ムーア著『解剖医ジョン・ハンターの数奇な生涯』(河出文庫 2013年)に詳しい。いま、当たり前のように行われているエタノール消毒を発明したのがそもそも彼だ。病の根絶のため、身を以てそれを体験せねば気が済まない彼は、梅毒を含めたあらゆる病原体を自分自身に接種した。種痘の開発者として知られるジェンナーは彼の弟子である。

『感染地図』

スティーヴ・ジョンソン、矢野真千子訳/河出文庫

『感染地図』

スティーヴ・ジョンソン、矢野真千子訳/河出文庫

スティーヴ・ジョンソンの『感染地図』(河出文庫 2017年)も、科学的に病原体を封じ込める人間の戦いを綴った快作だ。コレラが襲った19世紀ロンドンではまだ下水道が完備されておらず、土壌から井戸を通じ、人びとの口にこの「見えざる敵」が入り込んでいた。コレラの犯人すらも知られていなかった時代、感染区域の広がり方からある傾向を見出した1人の「探偵」がいた。その名は、ジョン・スノー。彼は、綿密な調査と根気と直感で、犯人の移動経路が井戸であることを突き止めてゆく。これが切掛けとなり、ロンドンの下水システムは完備されるに至った。

病は常に文明とともにある。都市の成長や構造変化、そして人の動きが新たな病原体の蔓延経路を構築する。そして21世紀、我々はグローバル経済を享受し、都市の構造はかつてなかった広がりと複雑さを見せ、あらゆる情報や物資や人間が凄まじい早さで、途轍もない距離を移動するようになった。人類史を振り返るとき、それによって現在を認識するとき、我々は直面している困難の真の顔を知るのだろう。

島田裕巳(宗教学者)
選者プロフィール
宗教学者、作家。1953年、東京都生まれ。東京大学大学院人文科学研究科博士課程修了。
放送教育開発センター助教授、日本女子大学教授、東京大学先端科学技術研究センター特任研究員などを歴任。
『葬式は、要らない』『浄土真宗はなぜ日本でいちばん多いのか』『靖国神社』『創価学会』
『世界の宗教がざっくりわかる』『0葬』『映画は父を殺すためにある』など著書多数。

『大菩薩峠』

中里介山/ちくま文庫:全20巻

『大菩薩峠』

中里介山/ちくま文庫:全20巻

こういうときは、楽しい本や、お気軽な本はむかない。逆に物語が深刻な方が、気分にあっている。一気に物語の世界に没入していくことができれば、うっとうしい現実を忘れることもできる。
その点では、中里介山の『大菩薩峠』がうってつけだ。
私は、『大菩薩峠』をちくま文庫版で読んだ。ちょうど、その刊行がはじまったときで、調べてみると刊行は1996年9月からのことだった。
1996年と言えば、オウム真理教の事件が起こった翌年のことだ。私は、つとめていた大学を辞めざるを得なくなり、浪人生活に入ったばかりの頃だった。
「そう言えば、『大菩薩峠』はまだ読んでいなかったな」
第1巻を買って、読みはじめたら、最後まで読み通してしまった。たしか毎月2巻ずつ出るというペースだったと思うが、それもよかった。
主人公は机竜之助という剣の達人である。作者は、これを「大乗小説」と呼んでいて、そのことも、宗教を学んできた私を刺激した。
『大菩薩峠』は何度か映画化されている。往年の時代劇スター片岡千恵蔵も有名だが、なんといっても、市川雷蔵の主演作が頭に浮かぶ。私は、雷蔵の顔を思い浮かべながら物語を読み進めていった。
最初、作者は、単純な仇討ちの物語にするつもりだったらしい。ところが、主人公があまりに魅力的な人物に作り上げられてしまったために、勝手に動き出し、物語は思わぬ方向にむかっていく。いっこうに敵討ちは果たされないまま、竜之助は自分を狙う相手から逃れるために各地を放浪していく。
白骨温泉の存在を知ったのも、この小説を通してだが、私はまだ行ったことがない。白骨という名前からは、浄土真宗中興の祖、蓮如の御文にある「白骨の章」が思い起こされる。葬式で唱えられる、「朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり」ということばは、ここに出てくる。『大菩薩峠』はまさに大乗小説なのだ。
『大菩薩峠』は、1913年に連載がはじまり1941年まで続いた。連載期間は、なんと28年間にも及ぶわけだが、結局は未完に終わった。作者としても、果てのない物語をどのような形で終結させるのか、具体的なアイディアを持ち合わせてはいなかっただろう。その点では、途中から未完であることが定まっていたのかもしれない。
面白いのは、時間の設定である。
物語のはじまりは安政5年、1858年だった。まさに幕末である。
したがって、物語のなかには、新撰組の近藤勇や芹沢鴨なども登場する。芹沢は、竜之助を仲間に引き入れようとする。
ところが、物語は慶應3年の秋まで進んだところで先に進まなくなる。慶應4年には、明治と改元されるので、竜之助も明治の人となっても不思議ではないのだが、そうなると武士ではいられなくなる。途中から、物語が現実の世界でのことなのか、それとも夢の世界での出来事なのかが判然としなくなっていく。
その感覚は悪くない。読者も、そこまで読み進めていれば、この小説が、ほかに類を見ない特異なものであることを理解するようになっているはずだ。
この時期の読書として何よりいいのは、読んでも読んでも終わらないことだ。そこには、現実とは異なる別の世界が展開している。読み終わる頃には、騒ぎもおさまっていることだろう。
それでも騒ぎが続いていたらどうするか。
そのときは、マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』を読もう。題名も、今にあっている。いくらなんでも、こちらを読み終える頃には、日常が戻っているはずだ。

佐々涼子(ノンフィクションライター)
選者プロフィール
ささ りょうこ ノンフィクションライター。
1968年、神奈川県生まれ。早稲田大学法学部卒業。日本語教師を経てフリーライターに。
2012年、『エンジェルフライト 国際霊柩送還士』で第10回開高健ノンフィクション賞を受賞。他の著書に『紙つなげ! 彼らが本の紙を造っている 再生・日本製紙石巻工場』『エンド・オブ・ライフ』。

『コロナの時代の僕ら』

パオロ・ジョルダーノ、飯田亮介訳/早川書房:4月24日発売予定

『コロナの時代の僕ら』

パオロ・ジョルダーノ、飯田亮介訳/早川書房:4月24日発売予定

4月3日。今夜のニュースで、全国で初めて300人を超える新たな感染が確認されたと伝えている。楽しみにしていた次男の結婚式は延期になって、ドレスのレンタルをキャンセルした。離れて住む長男夫婦も心配だ。今はまだ首都封鎖は起きていないが、明日にでもそれは起きるかもしれない。これを誰かが読む頃には、きっとまた世界は表情を変えていることだろう。まるで深い海の真ん中で溺れないことを必死に祈りながら立ち泳ぎをしているような気分だ。

そんな中で発売前の本書を読む機会を得た。パオロ・ジョルダーノは『素数たちの孤独』を書いた1982年生まれの小説家であり物理学者。彼は2月29日、イタリアで感染者数が世界でも上位に来た時期にこの随筆を書き始める。友人に夕食に招かれた時の自分のよそよそしい言動へのきまり悪さや、少年時代に手足口病にかかって隔離されたときの回顧など、少しずつ歪みはじめた日常のできごとを描きながら、時折こんな考察を挟み込む。
「感染症の流行はいずれも医療的な緊急事態である以前に、数学的な緊急事態だ。なぜかと言えば数学とは実は数の科学などではなく、関係の科学だからだ。数学とは、実体が何でできているかは努めて忘れて、さまざまな実体のあいだの結びつきとやり取りを文字に関数、ベクトルに点、平面として抽象化しつつ、描写する科学なのだ。そして感染症とは、僕たちのさまざまな関係を侵す病だ」。

彼は、私たちを75億個のビリヤードの球に喩える。
「僕らは感受性保持者で、今は静止している。ところがそこへいきなり、感染した球がひとつ猛スピードで突っ込んでくる。この感染した球こそ、いわゆるゼロ号患者(未感染の集団に病気を最初に持ちこむ患者)だ。ゼロ号患者はふたつの球にぶつかってから動きを止める」。
そうやって、数字の苦手な私にも、R0(アールノート)「基本生産数」という、“あらゆる感染症の秘められた核心ともいうべき数字”を理解させ、私が今、家にいなければならない理由をシンプルに解き明かす。つまり、ビリヤードの球と球との間隔を広げればいいというわけだ。

小さな我慢が少しずつ積み重なって、思わず感情を爆発させたくなるときには、彼は私のすぐ隣でささやくようにして、人間の業について説明しはじめる。「僕らは自然に対して自分たちの時間を押しつけることに慣れており、その逆には慣れていない」。だから流行があと一週間で終息し、日常が戻って来ることを要求するんだよと。
グローバル化でつながりあっている私たちの関係についての説明は、とても端正で私はすごく気に入っている。
「互いに作用しあう人間のあいだをペンで線を引いてつないだら、世界は真っ黒な落書きのかたまりになってしまうだろう。2020年の今や、どんなに俗世と隔絶した暮らしを送る隠者さえ、最低限のコネクションを割り当てられる。数字のグラフ理論的な表現をすれば、僕らが生きているこの世界は、きわめて多くのつながりを持つひとつのグラフなのだ。ウイルスはペンの引いた線に沿って走り、どこにでも到達する」。そして詩人のジョン・ダンが書いた瞑想録に由来する使い古された文句を引用する。「誰もひとつの島ではない」。
コロナ前には、孤独が現代病と言われて久しかったはずなのに、蓋を開けてみれば我々はみな地球の裏側にまでつながっていて、しかも逃げ場はどこにもない。私はそのことに愕然とするのだ。
だが、そのつながりをエゴイスティックに作り上げてしまったのは人類だ。人間同士のつながりに沿って縦横無尽に移動するウイルスにしても、環境破壊が生んだ多くの難民の一部であり、生息地でのんびりやっていた病原体を私たちのほうから巣から引っ張り出しているにすぎないのだ。読んでいるうちに私は次第に冷静になってくる。地に足を着けてよく考えるべきだよと彼は言う。よく知っているがぜんぜん違うこと、たとえば戦争なんかと混同しちゃいけないよと。その通り、きちんと考えることをやめてはいけないのだ。

飛び交う情報の中で真理を求めて右往左往し、すっかり疲れ果て傷ついてしまった時には、私に宛てて書かれたような、こんな一節が用意されている。
「今回の流行で僕たちは科学に失望した。確かな答えがほしかったのに、雑多な意見しか見つからなかったからだ。ただ僕らは忘れているが、実は科学とは昔からそういうものだ。いやむしろ、科学とはそれ以外のかたちではありえないもので、疑問とは科学にとって真理にまして聖なるものなのだ。今の僕たちはそうしたことには関心が持てない。専門家たちが口角泡を飛ばす姿を、僕らは両親の喧嘩を眺める子どもたちのように下から仰ぎ見る。それから自分たちも喧嘩を始める」。こんなにぴったりと心に寄り添う言葉があるだろうか。信頼していた人々が争っている姿を見たときの心細さを、私たちは今まさに味わっているのだ。

あとがきは心に染みる。これはイタリアの感染者数が中国を抜いて世界で一位になってから書かれたもので、感染爆発を予測しながらも、そこに向かっていくのを止められなかったことへの悔恨が、痛みに満ちた言葉で綴られる。彼は言う。自分たちが「ありえないはずのこと」を受け入れるのが不得意な国民であったと。そして、コロナ禍終息後の未来を見据え、読者に問いかけるのだ。「以前とまったく同じ世界を再現したいだろうか」と。いいえ、私もジョルダーノと同じく、次の世界ではもっと別のビジョンを持っていたい。だから忘れないでおこうと思う。この自然環境に対して人間がしてきたことについて、経済活動をはぎ取られて「生産性のない」生身の人間になってしまった私たちの傷つきやすさと真の価値について、そしてこの国がした経済優先の冷淡な仕打ちについても。私も感染を避けて家にいようと思う。そしてふいに与えられたありあまる隔離の時間を使って、新しい世界がもっと優しいものに生まれ変わる方法を、真剣に模索しようと決心するのである。本書は、同時代に生きる我々にとって忘れがたい一冊となるだろう。