一億総貧困時代

雨宮処凛

一億総貧困時代


1

「お父さんの子どもを産みました」
    ──虐待の末、路上に辿り着いた女性

 ──大晦日、そして正月は、新しい年に少しばかりの期待を持ちながら、家のふとんの中でゴロ寝する。ぬくぬく、ダラダラして過ごす小さな喜び。誰からもとがめられない、休暇の少ないこの国に生きる私たちに許された数少ない休息の時間だ。けれども、私たちはこれからもずっと、それを手放さずに、奪われずにいることができるのだろうか。
 連載第1回目は、年末年始恒例になった<ふとんで年越しプロジェクト>で著者が出会った「ホームレス」の女性のこと。彼女には、幼い頃からの被虐待経験があり、そして、小学生になる娘さんがいる。気が遠くなるほどに壮絶な彼女の人生だが、とはいえ、児童虐待の数は、近年ひどく増加しているのが現実でもある。彼女を特殊な人だと、その人生を自己責任だと、誰が言えるのだろう。

人生そのものが「被災」だった

「幼い頃からお父さんに性的虐待を受けていて、1回、17歳で堕ろして、27歳で娘を産みました。自分のお父さんの子どもです」
 ホテルのベッドに腰かけた優子さん(仮名・30代前半)は、訥々と語った。童顔で、ぱっちりした目が印象的な女性だ。
 1月3日、世間がお正月気分にまだまだ浮かれている頃、彼女は<ふとんで年越しプロジェクト>が借り上げたビジネスホテルの一室にいた。役所が閉まる年末年始、ホームレス状態などで行き場もなく所持金もない人などにシェルターを提供する取り組みだ。今年で3回目となるプロジェクトは、12月29日から役所が開く1月4日まで行われた。彼女が支援に繋がり、そのホテルに辿り着いたのは、本人の記憶によれば「12月29日かな?」とのこと。ちょうどプロジェクトが始まった日だ。
 出身は福島。3・11の時は郡山にいたそうだが、震災や原発事故の影響は受けなかったという。が、彼女の人生そのものが「被災」と言いたくなるほどに壮絶な道のりだった。

「お母さんは、私が6か月の頃に男つくって、私を道端に捨てようとしたそうです。お母さんは統合失調症で、今も入院しています」
 一人っ子の優子さんを育てたのは父方の祖母だった。父、祖母との三人暮らしの家庭は、生活保護を受けていた。優子さんは物心ついた頃から、すぐに暴力を振るい、物を投げつけて大声を出す父親に怯えていたという。
「お父さんがいると、いつもビクビクしてました。ご飯食べてる時も、常に顔色をうかがいながら」
 酒に酔って暴れるのかと思ったら、父親は一切アルコールを飲まない人なのだという。が、一度怒りに火がつくと止められない。すでに幼稚園児の頃には、「父親に虐待されて児童園(児童相談所のことだろうか?)に入ったことがある」という。
 虐待はそれだけでは済まなかった。彼女は小学校、中学校と学生生活を「特別支援学級」で過ごしている。
「私、まったく普通なのに、ちゃんと勉強もできてたのに、お父さんが私を障害者ってことにしちゃったんですよ。そうしたら障害年金貰えるから」
 思わず言葉を失った。私は専門家ではないが、優子さんは普通に話している限り、知的障害などがあるとは思えない。話の筋道もしっかりしているし、日付などもこちらが驚くほどよく覚えている。コミュニケーションをしていて違和感もない。そんな優子さんを「障害年金欲しさ」で障害者に仕立て上げる父親。結局、中学校の終わりまで特別支援学級で過ごした彼女は、高校に進学することはなかった。
 そしてその間、虐待は続いていた。中1の頃には、「ゼロコーラを買ってこいと頼んだのに赤コーラを買ってきた」というだけの理由で暴力を振るわれ、頭を3針縫う大怪我をした。翌日、包帯を巻いて登校すると先生に「どうしたの?」と聞かれたものの、何も言えなかった。

歌舞伎町から路上へ、そして施設から再び歌舞伎町へ

 そうしてもうひとつ、彼女には、人に言えない堪え難い虐待が続いていた。性的虐待だ。
「小学校1年生から大人までそういうことされてきて、17歳で堕ろして。お父さんの子どもです。私、警察にも行ったんです。だけど結局は『優子ちゃん嘘つきだから』って言われて。お父さんも警察に『やってない』って。ばあちゃんも、自分の息子が逮捕されたくないから、他の男とやったんだって」
 堕胎後も、性的虐待は続いた。そんな家が嫌で、10代の頃から彼女は頻繁に家出をするようになる。しかし、戻ると壮絶な「報復」が待っていた。
「19歳の時、家出したって理由で、ばあちゃんにバリカンで頭刈られて。お父さんは、ばあちゃんにも暴力振るうから、ばあちゃんはお父さんの言いなりなんです。だから成人式はカツラで行きました。あと、20歳の時、家出して戻ってきたら布団紐で後ろ手に手足縛られて、風呂場で夜中の3時から朝6時まで『反省しろ』って閉じ込められた。うちの風呂、室内じゃなくて外にあったから、雪も降ってる日で寒かった」
 また、父親が飲んでいる精神科の薬を無理矢理飲まされることもあったという。
 そうして27歳。彼女は父親の子どもを身ごもり、出産。
 今、娘さんは「児童園にいる」という。おそらく、児童養護施設だろう。今年の春には小学生となる。実の父親との間の子どもだ。話を聞きながら、私はこの父親がなんの罪にも問われず、普通に暮らしていることが恐ろしくて仕方なくなってきた。
 性的虐待について、彼女は警察だけでなく、役所にも助けを求めてきたという。
 しかし、対応は同じ。「お前が嘘をついている」ということだった。以前、家出によって保護観察処分になった経験があるという優子さんを、世間は「非行少女」、成人してからは「素行に問題がある人」という目でしか見ないのだ。リアルタイムな暴力、そして性犯罪の被害者なのに、警察も、役所も、どこも動いてはくれない。逆に声を上げれば「嘘つき」と罵られる。
 子どもが生まれても、やはり性的虐待は続いていた。そうして子どもが1歳半の時、耐えられなくなった彼女は単身、東京・新宿の歌舞伎町へ。
 そこでホストクラブの男性と知り合い、結婚。父親は反対したそうだ。その理由を、優子さんは「自分が娘の障害年金を貰えなくなるから」と言う。どこまでも、最低すぎる父親。しかし、反対を押し切って結婚し、東京での生活が始まった。
 数年間、父親から解放された生活が続いたものの、15年夏に転機が訪れた。離婚したのだ。
 行く場所もないので実家に戻ったものの、やはり耐えられずに1か月程度で飛び出した。
 実家にあった生活保護費を全額持ち、再び歌舞伎町に舞い戻った優子さんは、お金がなくなると売春をしながら日々の生活費を手に入れるしかなかった。稼げない時は、隣町の新大久保に段ボールを敷いて寝たという。
 数か月後、彼女は都内の「更生施設」に入る。彼女と話していると「更生施設」という言葉がよく登場するのだが、更生施設とは、生活保護法による保護施設のひとつ。デジタル大辞泉によると、「身体上または精神上の理由により養護および生活指導を必要とする者を収容して、生活扶助を行うことを目的とするもの」。優子さんによると、「DVやストーカーから逃げている女性」などもいるという。彼女は今までいくつかの施設に入ったらしいのだが、その中には、私が取材したことのある婦人保護施設もあった。そこには家族による虐待の被害者や知的障害を抱える女性、親に売春を強要されていた女性などが多くいた。中には、虐待、知的障害、親や知人男性による売春強要のすべてを負っている女性もいた。
 まさに「女性の貧困」のすべてが凝縮されたような場所。そこにはDVを受けた女性のシェルターも併設されていた。
 優子さんはかろうじて、この更生施設に入ったものの、ある日突然、「札幌の障害者施設」に行くことを勧められる。北海道には縁もゆかりもない。知り合いは一人もいない。
「『こういうところがあるんだけどどうですか』だったらわかるけど、突然言われて。それで、リュック持ってそこを出てきちゃったんです」
 そうして再び、歌舞伎町で売春をする。厚生施設に入って2か月後、11月のことだ。この施設を出る時、彼女は携帯電話を失った。施設では携帯の所持は禁止され、入所時に預けなくてはいけないからだ。携帯は、施設を出る時に返される仕組みだという。しかし、優子さんは黙って出てきたので携帯と、もうひとつ、同様に預けた3DSを失った。
「通信は駄目」という決まりらしいが、この厳しい規則、もう少しなんとかならないものかと思う。もちろん、虐待やストーカー被害者の場合、様々な配慮が必要なことは理解できるが。

「お前も、母親と同じことしてるんだ」

 その後の12月半ば、彼女は別の施設に入居する。
 そこも厳しいところだった。4人部屋で、門限は夜8時。朝7時から全員での掃除が始まる。そんな中、何よりも嫌だったのは、朝、部屋の鍵を開けて職員の男性が起こしにくること。
「ピンポンって鳴らして、すぐに出ないと鍵開けてそのまま入ってきて、肩ゆすって起こしてくるんです。怖い……。女の人が起こしにくるんだったらまだいいけど。もしお風呂入ってる時だったらって、思うだけで怖い……」
 彼女は両手で自分を抱きしめるようにし、恐怖にひきつった顔をした。その様子から、本当に怖がっているのが伝わってきた。施設に来る女性には、優子さんのような性的虐待被害者も少なくないはずだ。せめて、寝ている時に部屋に入ってくるのは女性職員にするなどの配慮が必要ではないのだろうか。
 そんな施設である日、優子さんは入居者から暴力を受ける。年配の女性に、突然後ろから引っ張られ、押さえつけられたのだ。助けを求め、警察も呼ばれる騒ぎとなった。女性はアルツハイマーだったという。
「そういうことがいろいろあって、出ちゃったんです」
 そうして年末、「ふとんで年越しプロジェクト」に辿り着いたというわけだ。以前から都内の炊き出しなどに行っており、顔見知りの支援者がいたことが、路上での年越しから彼女を救ったのだ。

 取材の日、優子さんは、去年の8月に家を出て以来、久々に実家に電話したことを教えてくれた。
「そうしたら、お父さんは私が8月に家を出たきりで、生活保護費も持ってっちゃったから、『指名手配にしてる』って。警察に電話してるって。もし家に帰ってきたら外には出さないって。あと、『子どもは優子には渡さない』って。実際に、お父さんの子でもあるわけだから、『俺が子ども引き取る』って。それで、里親に出すって言うんです。あと、『お前も母親と同じことしてるんだぞ』って」
 生後6か月の優子さんを道端に捨てようとした母と「同じ」だと娘をなじるのだ。自分の娘に子どもを産ませた張本人が。
 話を聞きながら、理解の範囲を軽く超えた話に、頭が沸騰しそうになっていくのを止められなかった。一体、この父親の中ではどんなストーリーが出来上がっているのか。
 優子さんは、諦めたように言った。
「お父さんは、うちのお母さんが一人しか子ども産めなかったから、その代わりに自分の娘のお腹を借りて子どもが欲しかったって言ってるんです」
 何をどうしてどうやったら、そんな陳腐な「正当化」ができるのだろう。
「私のこと、半分娘で、半分は女性ってことにしてたみたいです」
 酒も飲まず、違法な薬物も一切せず、まったくのシラフで娘を犯し続けることができる父親を思うと、おぞましいという言葉しか出てこない。
「寝る時も怖かった。寝てても来たりするから」
 そう言ったあとに、彼女は淡々と続けた。
「今でも私、お父さんとお母さん殺したいなって気持ちはやっぱりあります」

「いつもの場所」で会える友達

 施設にいる娘さんとは、東京に来て以来、会っていない。
 今年は小学校の入学式だが、父親は『入学式には来なくていい』とも言っているという。
 それに、もし入学式に行ったら、おそらく彼女は父親に力づくで家に戻されるだろう。
「どうやったら娘と面会できるのか」と優子さんは溜め息をついた。
 今後の希望は、東京でグループホームなどに住み、娘さんを引き取ること。いろんな仕事もしてみたいという。今まで経験があるのは、清掃やホテルの室内係、そして内職など。内職は、松ぼっくりをスプレーでカラフルに染色し、つまようじでビーズをつけ、最後にラメをつけてキラキラにさせるという作業。クリスマスツリー用のものだろうか。なんだかそんな「平和な家庭の象徴」のようなキラキラした松ぼっくりと、彼女の話のコントラストが強すぎて、頭がクラクラしてくる。
 施設に娘さんを入れたのは、祖母だという。連日のように祖母と父親が喧嘩し、娘さんの体重が減っていったことなどが理由だった。そうして今、父親は「娘を引き取る」と言っている。里親に出すとも言っているが、もし、父親のもとに引き取られたら、同じように年金目当てに障害者ということにされ、そうして父親は娘であり孫である女の子に同じことを繰り返すのではないのか。
 優子さんへの性的虐待が始まったのは、小学1年生の時である。

 この日、午後8時頃に取材を終え、友人と食事していると、10時過ぎに携帯が鳴った。
「今どこですか? 今から会えませんか?」
 優子さんの声だった。外にいるらしく、辺りのざわめきが聞こえる。
 何かあったのか不安になり、指定された歌舞伎町のとある場所に駆けつけると、優子さんは取材の時には見せなかった人懐こい笑顔で「処凛さーん!」と手を振った。
「こっちこっち」と彼女に案内された路上には、女の子たちが5人ほど、座り込んでいた。
「みんな、友達なんです。いっつもここでこうやって集まって喋ってるんです。ここに来ると安心するっていうか。やっぱりここが居場所だなーって」
 優子さんはそう言うと、本当に嬉しそうな顔で笑った。彼女によると、みんなネットカフェなどに泊まりながら売春している子たちだという。
 彼女たちと座り込み、他愛ない雑談をしていると、次々と男性が声をかけてくる。
「レーズンパンで餌付けする親父」というあだ名をつけられた高齢の男性は、彼女たちと挨拶を交わし、そのたびに煙草を配る。
 もう一人、きっちりスーツを着たサラリーマン風情の男性もいつの間にか女の子の輪に入っていて、私が取材者という立場だとわかると、なんの悪気もない様子で「ここは通称・デブ専通りで、みんなウリやってる女の子たちなんだよねー」などと「解説」してくれる。確かに女の子たちの中にはぽっちゃり体型の子もいるが、そうでない人もいる。みんなに話を聞いてみると、20年間、このような生活をしているという30代女性もいれば、つい2週間前に出産したという女性もいる。一方、一見してなんらかの障害があるとわかる40代くらいの女性もいる。
 そうして女の子の一人は、本当にごく自然にサラリーマンの隣に座り、腕を組んでしなだれかかる。
 風俗産業や個人での売春などが、女性の貧困の一種のセーフティネットになってしまっている事実は、嫌というほど耳にしてきた。そのことと目の前にある光景は繋がるはずなのに、私の中で、どうにもうまく繋がらなかった。サラリーマンと女の子たちは親しげに軽口を叩き合い、それは一見「楽しそう」な光景だったからだ。
 それぞれの女性たちに、どんな事情があるのかはわからない。
 だけど、家がほぼ地獄で、逃げて逃げて歌舞伎町に辿り着いた優子さんにとって、この吹きっさらしの寒い路上が、やっと一息つける場所なのだ。たぶん同じように様々な事情を抱えているだろう友達の前で生き生きした顔を見せる彼女を見て、ここでただお喋りする時間が、どれほど貴重なものであるのか、寒さに足踏みしながら、なんとなく、わかった。
「今まで、相談する人もいなくて、自分一人で悩み抱え込んで。子ども叱る時って、駄目だよって言えばいいのに、うちのお父さんは頭ごなしにがーっと言うから、何も喋れなくなっちゃって。それでずーっと一人で悩み抱え込んで」
 取材の時、優子さんが漏らした言葉だ。おそらくここの女の子たちとは、いろんな話ができるのだろう。
 だけど、8時が門限の施設では、こんな時間は決して持てない。彼女は携帯も持っていないのだ。だからこそ、「いつもの場所」で会える友人は貴重なのだ。すべての人間関係を失って生きていける人など、この世にいるだろうか。

誰かを助けたい

 1月4日、役所の開庁日と同時に、年末年始に行き場のない人にシェルターを提供する<ふとんで年越しプロジェクト>は終わった。
 そうして、彼女の新たな住処を見つける取り組みが始まった。
 支援者が協力し合いながら、彼女の希望を聞きつつ、落ち着ける場所を探すのだ。
 1月5日、まだ行き先が決まらず、仮住まいの小さなホテルにいる彼女を訪ねた。いくつかの候補があったが、条件がうまく合わなかったりで、なかなか決めるのは難しいようだった。
 2日後の1月7日、彼女から電話がかかってきた。
 都内某所の施設に無事、入居したのだという。
 とりあえず、当面の落ち着き先が決まった安心感からか、電話の声は明るかった。また、そこには厳しい門限もなく、人間関係も今のところ問題なさそうだという。
「いつか、私もお世話になったみなさんと一緒に、ボランティアがあったらやってみたいなって思ってます。人を助けたい」
 取材の日、彼女がぽつんと言った言葉を、なぜか私は思い出していた。
 家族、そして助けを求めた警察や役所にことごとく裏切られてきた彼女の中に、それでも「人を助けたい」という思いがあることに、胸を打たれた。

 この年末年始は、多くの人が各地の「越冬」で命を繋いだ。
 役所が閉まっている期間、ホームレス状態にある人々などへ炊き出しや夜回り、医療相談や生活相談などをする取り組みが「越冬」だ。普段であれば生活に困窮した場合、役所に行けば生活保護申請などができる。が、年末年始はどうにもならない。また、普段はネットカフェに泊まりながら日雇いなどで働いている層も、この休みによって仕事を失う。そうなると、一気に路上に出てしまうのだ。よって、民間のボランティアが休み返上で走り回ることになる。
 年末年始、横浜の寿町、東京は渋谷、山谷、池袋の炊き出しに行った。
 数百人が炊き出しに行列を作る光景は、「圧巻」と言っていいほどだった。若い人の姿もあれば、おじいさん、おばあさんなど、お年寄りの姿もあった。
 それぞれが、それぞれの事情を抱えている。
 失業したという人もいれば、家庭の事情を抱えた人もいるだろう。また、障害を抱えた人も少なくなかった。
 元旦、そんな各地の越冬現場からシェルターに辿り着いた人が数人参加する食事会が行われ、そこで初めて出会ったのが優子さんだった。
 元旦の昼から料理作りが行われ、私が行った時にはテーブルに乗り切らないほどの御馳走が並んでいた。優子さんが担当したというサラダは魚肉ソーセージとツナがたっぷり入っていて、私は何度もおかわりした。家庭的な、ほっとする味だった。料理は昔から得意だという。
 近々、彼女と2人で食事する予定だ。
 娘さんのことがとても心配にちがいないだろうけれど、まず身を落ち着けることが先だ。ここから、彼女の人生の再出発が始まる。
 今まで大変すぎた分、彼女には、幸せになる権利がある。絶対に絶対に、幸せになってほしいと、心から思う。
 もう少しで、優子さんの誕生日だ。昨日、気持ちばかりのプレゼントを買った。彼女は喜んでくれるだろうか。今からなんだかドキドキしている。


Profile

雨宮処凛(あまみや・かりん)
1975年、北海道生まれ。愛国パンクバンドボーカルなどを経て、2000年、自伝的エッセイ『生き地獄天国』(太田出版)を出版し、デビュー。以来、若者の「生きづらさ」についての著作を発表する一方、イラクや北朝鮮への渡航を重ねる。 06年からは新自由主義のもと、不安定さを強いられる人々「プレカリアート」問題や貧困問題に積極的に取り組み、取材、執筆、運動中。反貧困ネットワーク世話人、09年~11年まで厚生労働省ナショナルミニマム研究会委員を務めた。著作に、JCJ賞(日本ジャーナリスト会議賞)を受賞した『生きさせろ!難民化する若者たち』(ちくま文庫)、『ロスジェネはこう生きてきた』(平凡社)、『14歳からわかる生活保護』『14歳からの戦争のリアル』(河出書房新社)、『排除の空気に唾を吐け』(講談社現代新書)、『命が踏みにじられる国で、声を上げ続けるということ』(創出版)ほか多数。共著に『「生きづらさ」について 貧困、アイデンティティ、ナショナリ
ズム』(萱野稔人/光文社新書)など。


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